部屋の中に、二人分のペンを走らせる音だけが響く。
 カミュさんの執務室で、私とカミュさんは山のように溜まっていた書類を捌いていた。 別にサボってため込んでいたわけではない。プリムスクラブの総支配人であるカミュさんの所には、毎日山のように仕事が舞い込んでくるのだ。私はそのお手伝いと、ギルドキーパーの仕事での書類を片付けていた。
 プリムスクラブは夜に営業していることもあり、書類仕事は日中にするようになる。そんな日があるのももう慣れた。
 今日は私もカミュさんもフロアでのお仕事はお休みを貰っているので、この仕事が終われば自由な時間だった。
 早く終われば二人で一緒の時間を過ごせるかも、とそんな淡い期待を抱きながらも仕事をこなしていく。時折コーヒーを淹れたり確認をとったりする以外はひたすら書類と向き合っていた。
 集中して作業すること数時間。
 自分の担当していた最後の一枚を書き終えて、私は顔をあげた。
 昼間から始めたはずなのに、もう窓の外の陽は傾きはじめていた。
 カミュさんの机に山のように積まれていた書類も、もうかなり減っている。
 彼の様子を窺い見ると、流石に疲れたのか、書類に視線を落としたまま小さく溜め息をついていた。
 そんな姿でさえ、見惚れるほど美しい。整った顔立ちと、自分でも価値があると自負するほど、サラサラと流れる綺麗な金色の長い髪。声を掛けるのも忘れてしばし見入っていると、
「そんなに見つめられては、穴があいてしまいます」
 クス、と笑みを零され、私は恥ずかしさに目を伏せた。
「すみません!」
 じろじろ見ていたつもりはなかったのに、気づいたらずっと見ていたらしい。気を悪くされただろうかと一瞬不安になるけれど、カミュさんの表情は穏やかだった。
「お願いした仕事は終わったのですか?」
「はい、終わりました」
「流石ですね。ありがとうございます」
 そう言ってカミュさんはまた次の書類に目を通し始めた。彼の持っていた書類ももう終わりそうだけれど、できることがあるのなら少しでも力になりたい。
 ギルドキーパーとしてマイスターである彼の手助けをするのはもちろん、個人としても彼は大切な人なのだから。
「あの、他にできることはありますか?」
「そうですね……」
 カミュさんは手を口元にあてて、考え始めた。
「一つ、ありますよ」
「任せてください!」
「おや、内容を聞いてからでなくて良いのですか?」
 怪訝そうな顔をされ、私も首を傾げた。
 初めて会った時には色々とあったけれど、カミュさんは無理難題を押しつけてくることはしない、と思う。
「私にできることなら」
「エマさんにしか頼めないことです。こちらへ」
 手招きされ、カミュさんの方へと近づく。隣に立つと、穏やかに笑んでいた彼の目が、すっと鋭く細められた。
「君の、その素直さは大変好ましいのですが」
 声に滲む不穏さにびくりと身を竦めると、突然手を引かれ、カミュさんの方へと倒れ込んだ。
「いけませんね、もっと警戒心を持って頂かなくては」
 悪い男に騙されてしまいますよ。
 耳元で囁かれた言葉の意味を理解する前に、そのまま背中を抱き寄せられた。そして。
「んっ……」
 唇を塞がれたかと思うと、中に熱い舌が入り込んでくる。
 抵抗しようと思えばできたのかもしれない。けれど、私にはそんな気はなかった。
 抱き寄せてくる腕が、与えられるキスが、あまりに心地よくて。深く口づけられて、身体の力が抜けていきそうになるのを、必死で耐えた。
 どれほど時間が経ったのだろうか。ようやく解放されたときには、すっかり息が上がっていた。
 零れた唾液を、カミュさんの指先が拭う。その仕草と表情がやけに艶っぽくて、ますます顔が熱くなっていく。
「っ……お仕事じゃ、なかったんですか」
「私は仕事だとは一言も言っていませんよ?」
 悪びれた風もなくカミュさんは言ってくる。
 よくよく思い返してみれば、そうなのかもしれないけれど。そんなむちゃくちゃな理屈……! と抗議したところで、勝てるわけがない。
 だって、こんなにドキドキしていて、顔が熱くて……触れられるのが嬉しい、と思ってしまったのだから。ほんの少し、悔しい気持ちもあるけれど。
「そろそろ休憩をしようかと思っていたのですが」
 彼の手袋越しの長い指が、柔らかく包み込むようにして頬に触れてくる。
「こんなに可愛らしい顔をされては、休憩どころでは済まなくなってしまいますね」
 その言葉の意図が分からないほど子供ではない。
 カミュさんの低い声が、今はほんの少し、柔らかな甘さを帯びている。
 それは、いつも私を愛してくれているときのようで、心臓がうるさいくらいに音を立てる。
「エマさん、この後は私の部屋に来て頂いても?」
 カミュさんの手が、私の髪を一房掬って口づける。それだけで身体の奥の熱を煽られるようだった。
「……はい」
 ようやく絞り出した声は、自分の胸の音にかき消されてしまいそうなほど小さかった。
 それでもしっかり届いていたようで、もう一度触れるだけの優しいキスをされる。
 一緒に過ごしたいという私の望みは叶えられたけれど。沈み行く陽を窓の外に見ながら、そっと彼の胸に身を預ける。――夜はまだ、これから。

 

 

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甘々ワードパレット 3:ガトーショコラ(溜め息/目を伏せる/拭う)

 2022/03/30公開