眩く輝く月と星々に彩られた夜空は、濃紺に塗られたキャンバスに宝石を散りばめたみたいだった。空気は澄んでいて雲一つなく、見慣れたはずの風景も今日は特別明るく感じる。
 それは天気のせいだけではなくて自分が浮かれているせいかもしれないけれど。
 そろそろ日も変わろうかという時刻。エマは一人でレコルドの街を歩いていた。
 一週間ほど前からギルドキーパーの仕事で他国まで出向いていたが、ようやく片付いてレコルドまで戻って来たのだ。ムーンロードを渡る関係で、どうしても帰りは夜の遅い時間になってしまう。
 通りに人はまばらで、街に灯る明かりも少しずつ減り始めている。まだ賑わっているのは酒場だろうか、楽しそうな人の声が漏れ聞こえてくる。それを横目に、自分の帰る場所へと急いだ。
 『月渡り』のギルドハウスは、もうすぐだ。
 ギルド連盟本部に報告することもあるけれど、それは明日でいい。報告書はまとめてあるし、今日は帰って休むつもりだった。
 明かりのついたギルドハウスを見て、エマはほっと溜息をついた。
 今日帰るという連絡はしていたから、待っていてくれたのかもしれない。
「ただいま」
 寝ている人もいるだろうからと声量は控えめに扉を開けると、グランフレアが迎えてくれた。
「おかえり、エマ」
 低く心地よく響く優しい声と、穏やかに笑う表情に、胸が温かくなる。と同時に、ほんの少しだけ落ち着かない心地にもなった。
 エマは足音を立てないように、椅子に座っていた彼の方に近づいた。
「みんなはもう寝てる?」
「ああ。クロウは起きて待っていると言っていたんだが」
「明日は朝から依頼でしょう? 寝ていてくれてむしろよかったよ」
 依頼の話は聞いていたし、自分のために仕事に悪影響を出させてはギルドキーパーとして申し訳が立たない。待っていてくれるのも嬉しいけれど、万全の仕事をして、無事に帰ってきてくれるのが一番だ。
 イツキとノアはいつも早めに寝ているし、あともう一人は。
 訊ねる前に、グランフレアは眉間に皺を寄せ、溜息交じりに告げた。
「ルージュはまた遊び歩いてるようだが」
「あはは、いつも通りだね」
 直接顔を見て、言葉を交わして。こんな些細な会話だけで、胸に広がっていくのは安心感。それから、胸が弾むような心地とくすぐったいような感覚の入り交じった、ふわふわした気持ち。
 他の仲間たち、職人の人たちと過ごす時間も楽しくはある。みんな、それぞれの夢を追いかけているし、その手伝いができるなら嬉しい。それは本心だけれど、グランフレアは特別だった。
 いない間の報告や雑談、なんでもいいからこのまま話し続けていたい。もっと一緒にいたい。二人きりの時間を過ごしたい。この時間を終わらせたくない。そんな気持ちが次々に湧いてくる。
 エマはちらりと時計を見やった。グランフレアもその視線の先を追って、苦笑した。
「ああ、もうこんな時間か」
 もう少し一緒にいたいけれど、話に興じるには遅い時間だ。それに、グランフレアは寝るのが遅い方だけれど、常に忙しくしているのだから休める時に休んでもらうべきだろう。
「そろそろ寝ないとね」
「疲れているだろう、明日のことは気にせずゆっくり休んでくれ」
 そう言いながら、グランフレアは持っていたグラスに口をつけた。揺れる琥珀色の液体はまだ半分ほど残っている。彼はもう少しここにいるつもりなのだろう。
 自分のことを気遣ってくれているのは伝わる。
 それなのに、わがままなんて言えない。
 けれど、例えば。
 自分が彼の恋人であったなら。何も考えずに素直に伝えることができたのだろうか。
 ちくりと胸を刺す痛み。自分は彼のことが好きで、彼も自分を好いてくれている。しかしそれは、家族であり、仲間……いい感じの仲間、であって恋人でもなんでもないのだ。
 自分がこんなにも欲張りだったなんて思わなかった。痛みには気づかないふりをして笑顔を作ると、エマはグランフレアに問いかけた。
「……グランは、寝なくていいの?」
「ん、そうだな」
 グランフレアはわずかに思案し、グラスから視線を上げる。
「お前が嫌でなければ、少しつきあってほしいんだが」
 エマが頷くと、彼はふ、と微笑んだ。
「おいで」
 グランフレアが自分の横をぽんぽんと叩いて座るように促してくる。エマは何も言わずにそこに座った。グランフレアを見上げると、彼はそっとエマの頭に手を伸ばしてきた。ふわりと柔らかく撫でられ、エマは目を瞬かせる。
「えっと……」
「なんだか元気がないように見えたが、違ったか?」
 彼の勘が鋭いのか、自分が誤魔化すのが下手なだけか。いつも通りにしていたつもりだったのにあっさりと見透かされ、なんだか恥ずかしくなる。
 けれど、心配してもらうようなことではないのだ。
「そんなことないよ。でも、ありがとう」
 自分よりもずっと大きくてゴツゴツした手。それでも、撫でる手つきは優しくて、温かくて、心地良い。さっきの痛みはもう消え去って、代わりに心臓が忙しなく動き出した。
「大変な仕事だろうし、言えないこともあるだろうが。いつでも甘えていいんだぞ」
 真摯な言葉。柔らかな声。仕事で悩んでいるわけではないけれど、自分のことを想ってくれているのが嬉しい。
 何を返したらいいのか逡巡していると、グランフレアが困ったように笑った。
「なんて、いつも甘えているのは俺の方か」
 彼の言う『いつも』の意味を悟って、頬が熱くなった気がした。背中越しの彼の体温を思い出す。彼の想いがどうであれ、包み込むように抱きしめられているあの瞬間は、何よりも幸せで心地良い。
 だからほんの少しでもいいから、彼のことを感じていたくて。
「……じゃあ、私も、少しだけ」
 そう言って彼の肩に頭を預ける。ふ、と彼が笑うのが分かった。
「お前は温かいな」
「グランだって、温かいよ」
 その声に彼を見上げてみれば、視線が絡んだ。互いの瞳に、映るのは互いの姿だけ。
 今だって充分すぎるくらい嬉しくて、それなのにもっともっとと際限なく求めてしまう。日に日に少しずつ大きくなる想いが、胸の奥に収まらずにはじけてしまいそうで。でも『もしこの関係が壊れてしまったら』と考えてしまえば、震えるほど怖くて踏み出す勇気すら持てなかった。
 静かな部屋には時計の針の音だけが響いている。
 このまま時が止まってしまえばいいのに。
 そんなことを考えながら目を伏せると、不意に腕を引かれた。そのまま背中に腕をまわされ、抱きしめられる。
「っ、ぐ、グラン?」
 戸惑いに声を上げると、苦笑する声が降ってきた。
「どうにも離れがたいと思ってな。もうこんな時間だというのに」
 グランフレアの言葉に、また心臓が煩く鳴りだした。
「明日の朝食は、お前が好きなものを作ろう。仕事が終わったら、午後でも夕方でもいい、買い物につきあってくれ」
「えっ、え? それは、かまわないけど」
「約束だ。……おやすみ、エマ。また明日」
 耳元に落とし込まれた囁くような声に速まっていた鼓動が更に跳ねた。
 グランフレアは何事もなかったかのようにグラスの残りを一気に呷ると、片付けに行ったのだろう、キッチンへと向かった。
 エマはその背を呆然と見送っていたが、やがて慌てて立ち上がった。
 思考が追いつかない。混乱している。それでも、この真っ赤になっているだろう顔を見られるのは恥ずかしくて。
「おやすみ、グラン!」
 ようやくそれだけを言い残して、逃げるように自室へと向かっていた。

 

 パタン、と音を立てて扉が閉まる。ずるずるともたれるように座り込み、エマは額を膝に押しつけた。
 おやすみ、エマ。また明日。
 囁くような声と、微かに触れた吐息がまだ耳に残っている。明日の約束も頭から抜けていきそうなくらい、他のことなんて考えられなくなる。
「眠れないよ、もう……」
 この熱も早鐘を打つ鼓動も、まだ治まりそうになかった。

 

 

*****

甘々ワードパレット 20:パフェ(欲張り/少しずつ/瞳)

 2022/03/11公開