机の上には積まれた参考書、それからノート。さらさらと、ノートの上をペンが滑る動きにあわせ、インクが整った文字を残していく。
 文字が一ページを埋めたところで、彼は手を止めて紅茶に口をつけた。良質な茶葉から淹れた紅茶は香りが良く、何も入れずとも美味しい。
 ここはオクタヴィネル寮長のアズールの部屋だ。明日は休日、少しくらい夜更かししても問題ない。
 試験対策用のノートはこうした時間に少しずつ作り上げていく。これは、テストで困っている生徒たちのために、深い慈悲の心をもってして作り上げているものだけれど、要点をまとめていく作業は自分の勉強にもなる。昔は勉強なんてできなかったし、必死で勉強しだしたきっかけなんて良いものでもないけれど、今は嫌いではなかった。
 優秀だとまわりに認められ、褒められることは嬉しかったし、知識は自分にとっての財産だ。知らないことを学んでいくのも、いつの間にか楽しくなっていた。
 それに、この知識を金儲け――もとい、他の困っている生徒たちを助けるために使えるのだから、良いことずくめだ。
 紅茶をもう一口飲んでから、カップを置いてペンを持つ。再びノートに文字を書き出そうとした、その時。
 バタン、と音を立てて扉が開かれた。
「ひまー!」
 振り返ると、入ってきたのは寝間着姿のフロイドだった。シャワーを済ませて、もう寝るだけなのだろう。スマホと、部屋から持ち出したらしい枕を抱えていた。
「騒々しいですね……」
「アズール一緒に寝よ~」
「子供ですかあなたは」
 アズールは溜め息を吐いた。そういえば今夜は、ジェイドは山に出かけてしまっているのだった。一人でキャンプ道具を持って、泊まりがけで。兄弟の片割れ……話し相手もいなくて退屈なのだろう。それで自分の所に来たというわけだ。
「だって一人で寝るのつまんねーじゃん」
「僕はいつも一人で寝てますけど」
 さて、無碍に追い返す気もないが、もう少し作業を進めてしまいたい。
「まあいいでしょう。僕はきりのいい所までやりますので、邪魔をしないのならご自由に」
「は~い」
 気の抜けた返事をしているが、これでしばらくは大丈夫だろう。
 フロイドはアズールのベッドに持ってきた枕を放り投げ、自分もそこに転がった。そしてスマホをいじっている。
 ちらりと時計を見ると、日付が変わるまではまだ時間があった。アズールの持つペンが、またさらさらと動き出す。この範囲だけまとめてしまおう。あと五ページほど。
 静かだった。ペンの音、それからフロイドが体勢を変えた時にわずかに音が立つ程度。
 フロイドは寝転がったまま、大人しくスマホを操作している。
 最後のページにさしかかった時、フロイドが声を発した。
「ジェイド、楽しそう」
「気候も良いし、晴れていたから星も綺麗でしょうね」
 マジカメに写真でも上げていたのだろう。フロイドの言葉に、ノートに目を向けたままアズールは返した。フロイドが見ていたものが気にはなるけれど、あとで見ることにする。
 もう少しで終わる。結構な時間作業していたから、ちょうど良い頃合いだろう。最後の文字を書き終えて、アズールはノートを閉じた。
 カップに残る冷めた紅茶を飲み干して、立ち上がる。
「終わった~?」
「ええ」
 空のカップを片付けて、それから寝る支度をして戻ってくる。
 アズールは自分のベッドの真ん中を堂々と陣取っているフロイドを、奥に押しやった。
「詰めてください。僕が入れないでしょう」
 フロイドは大人しく言うとおりにする。今日は聞き分けがよくて助かる。寂しいだけで機嫌は悪くないらしい。
「言っておきますが何もしませんからね」
「何も言ってないじゃーん、アズールのえっち」
「ぐっ……」
 ニヤニヤと返され、アズールは言葉を飲み込んだ。これは牽制のつもりだったがただの墓穴だった。失敗した。
 ジェイドはアズールの身体に腕を回した。ぎゅ、っと柔らかく包み込むように抱きしめて、目を閉じる。
「アズールはあったかいねー。ジェイドよりもあったかいかも」
「あなたたち、いつもこんなことしてるんですか?」
「いつもじゃないよ、たまーに」
 たまに、ねぇ。図体のでかい男兄弟で、こうやってくっついて眠るのか。想像しただけで絵面が暑苦しい。と、思っただけで口にはしないが。
「オレとジェイドはずっと一緒だったから、昔を思い出して懐かしくなる」
 珍しく、遠くを見るような目で話すその言葉の、奥にあるものを感じ取る。
「……そうですか」
 それ以上は、何も言えなかった。生まれ育った海の世界は、きれいで、冷たくて、過酷だった。自分はまだ、親に大事に育てられてきた方だろうけれど、大きくなれない者なんて、いくらでもいる。弱ければ、運が悪ければ……。魚だろうが、人魚だろうが、それは変わらない。
 二人は稚魚の時に互いを相棒に選んだと言っていた。それは二人から聞いたことだ。それが何のために、だとか、二人でどうしていたか、なんて聞かずとも海に生きていれば分かることだった。暗い海の中で、寄り添いながら生きてきた時もあるのだろう。あるいは、今も。
 それは付き合いの長いアズールにも、立ち入れない部分ではあった。
 言葉を続けられないでいると、フロイドはもう少し距離を縮めてきた。すり、と子供が親に甘えるように頬を寄せてくる。
「なんです? 今日は」
 同い年の、自分より大きな男にされても可愛いなどとは思えないが、まあ、フロイドの気まぐれなのだろう。
 このあまりに近い距離感も、別に嫌ではない。自分も相当彼らに絆されてるな、なんて心の中で苦笑する。
 不意に、頬に柔らかなものが触れた。それがフロイドの唇だと理解するまでに、そう時間はかからなかった。
「何もしないんじゃなかったんですか」
「えー、何かしたうちに入んねーじゃんこんなの」
 そう言いながら、頬に、額に、と柔らかくキスを落とされる。一瞬、触れるだけの。子供の戯れみたいだ。
「イチャイチャしたい気分なのー」
「はいはい」
 フロイドの気まぐれを受け入れ、されるがままになっている。そのうち飽きるだろう、と思っていたけれどあまりにベッドの中があたたかいから、眠気の方が先に来てしまった。この、寝間着越しに伝わってくる体温と心音が、どうにも心地よくて眠気を誘ってくる。
「僕はもう寝ますよ。あなたは寝ないんですか」
「んー」
 スマホに手を伸ばし、時間を見る。そしてベッドの端に放った。
「オレも眠いかも。おやすみ、アズール」
「ええ、おやすみなさい」
 明かりを消し、今までのお返しとばかりにフロイドの頬に一つ口付けを落として。
 彼の腕の中に寄り添ったまま、目を閉じてまどろみのなかに身を委ねた。

 目が覚めて、まず見えたのはフロイドだった。いつの間にやら胸に抱えられ、足までかけられて抱き枕のようにされている。少し重い。
 それにしても、長く眠っていた気がする。今、何時だろうか。
 スマホに手を伸ばす前に、後ろから声が聞こえてきた。
「おはようございます」
「ジェイド?」
 振り返ると、私服姿のジェイドがそこにいた。アズールが使っている机の椅子にかけて、こちらを見ている。戻ってからシャワーを浴びて着替えて部屋に来たのだろう。
「今朝帰ってきたらフロイドがいなかったので。こんな時間までぐっすり眠っているなんて、僕がいない間に随分仲良くしていたようですね」
 からかうような色を含んだ笑み。アズールは肩を竦める。
「文字通り眠っていただけですけどね。ああ、もう十時か。寝過ぎたな」
「ゆっくり眠れたなら良いじゃないですか」
 そう告げるジェイドはとても楽しそうだ。部屋に入ってきたことにも気づかなかったけれど、しばらくこうして寝ている姿を眺めていたのだろうか。
「朝食を用意しておきました。フロイドが起きたら一緒に食べましょう」
 机の上には、サンドイッチが乗った皿。もう朝食というより昼食に近い時間だが、フロイドはまだ気持ちよさそうに眠っている。
 昨日の夜から何も食べていないから、お腹は空いた気がする。けれど動いたらフロイドを起こしてしまうと思うと、動けない。
 ただでさえ寝過ぎたのに、何をするでもない時間なんて無駄だ。いつもなら考えられないことだ。時は金なりという言葉もある。この時間でできることは色々あるだろうに。頭の中には浮かぶけれど、あまりにもフロイドが穏やかな寝息を立てているから。
 ジェイドだって、ただこちらを眺めているだけだし。フロイドは起きる気配がないし。
 もう少し、このままで。ああでも、お腹が鳴る前に起きて欲しいな。
 静かな休日の朝。……たまには。たまになら、こんな時間も、悪くはないか。
 気分屋の寝顔を間近で眺めながら、アズールは柔らかな笑みを浮かべていた。

 2020/05/30公開

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