「ジェイド先輩って、大きいですよね」
 モストロ・ラウンジの開店前。アルバイトに来ていた監督生が、彼を見上げ
て告げる。
 仕込み中に、上の棚にある食器を取り出しただけ。ジェイドにとっては自然
な動作だったが、彼の胸くらいまでしか身長のない監督生では、台にでも乗ら
ないと届かないだろう。
「そうですね、こういう時は役に立ちます」
「ちょっとうらやましいです」
 棚の上の食器も、本棚の一番上の本も、彼にとっては何の障害もなく取り出
せる。彼女や他の生徒が使えるように、踏み台も用意はしているけれど、毎度
運ぶのも大変そうだった。他の生徒は男子だしどうでもいいのだが、彼女は彼
らよりもずっと、小柄で非力だ。そこはもう、雌雄の作りの違いだろう。
「不便な点もありますよ。陸に来たばかりの頃は、よく頭をぶつけました」
 彼らが普通に通っている出入り口も、多少頭を低くしないと通れないところ
がよくある。
 なるほど、と感心している監督生は小柄だし、この学園内で普通に通れな
い場所はないだろう。
「私とジェイド先輩は、見ている世界が違いますね」
「世界、ですか」
「いつも見ている景色も、全然違うでしょうし」
 口元に手を当てて、考える。目線が違えば、見えるものも全然違う。それは
言うとおりだ。
「気になりますか、僕の見ているもの」
「そうですね、遠くまで見えて楽しそうだとは思います」
 監督生は無邪気に笑った。
 ジェイドは監督生の方へ、一歩歩み寄る。そして。
「失礼します」
「……!」
 軽い身体を慎重に抱き上げ、自分と顔の位置が同じくらいになるように高さ
を調節した。
「どうですか」
「すごいですね」
 ラウンジが見渡せる目線。いつも自分の目に映る光景を、楽しそうに見てい
る彼女。
「いつものラウンジが、こんなに違うなんて思いませんでした」
「楽しんでいただけたなら何よりです」
 そっと床に監督生を降ろし、それから自分も気になって、彼女に合わせて少
しかがんでみる。
「これがあなたの世界ですか」
「見える範囲が全然違うでしょう。びっくりしました」
「そうですね」
 些細なことでも、知らないことを一つまた知ることができた。それが彼女の
世界の一欠片だとすれば、なおさら嬉しい。
 海の中では他人との高さの違いなんて気にしたこともなかった。身長に関係
なく、泳いで同じ位置にいけば、同じ景色が見られる。
 陸で生きる彼女だからこそ、見つけられた違いなのかもしれない、とも感じ
る。
 ふとそのまま隣を見ると、彼女と視線があった。景色だけでなく、同じ目線
で顔を見ることも、あまりない。
「近いですね」
「そ、そうですね」
 真横にいるのだから当然だ。じっとその顔を見つめると、落ち着かないの
か、そわそわと視線をさまよわせている。
「……監督生さん」
 肩に触れ、それから更に距離を詰める。唇が、触れるまで、近くに。
「……っ!」
 一瞬触れたのは、彼女の唇……の、真横。外したわけではなく、ねらってそ
こに唇で触れた。
「僕の世界を見せた対価、ということにしておきます」
 自分から勝手にしておいて、後付けで条件を出して、これでは押し売りもい
いところだけれど。
 彼女の顔を近くで見ていたら触れたくなった、だなんて。そんなことはいえ
るはずもなかった。彼女は顔を耳まで真っ赤にして、口をぱくぱくさせてい
る。
「ゆでダコのようですね」
 色はゆでダコ、動きは小魚、と言ったところか。そんなところも可愛らしい
けれど。
 自分の為に心を乱す彼女の反応を楽しんでいると、彼女は落ち着くためか小
さく深呼吸し、それからキッとジェイドを見上げた。
 からかいすぎて機嫌を損ねてしまっただろうか、と謝罪を口にすべきか考え
ていると、彼女はジェイドの袖を掴んできた。
「だったら、もう一度見せてください」
 やり直しをしろと要求されるとは思わなかった。それとも、もう一度キスを
されたいのだろうか。二度目は唇にしてさしあげますが。内心でそんなことを
思いながら、彼女の言うとおりにする。
「では失礼しますね」
 一応の断りを入れて抱き上げる。見えるのはさっきと同じものだろうに。
「ジェイド先輩」
 不意に耳元で聞こえた声。そして、頬に触れた柔らかな手と、引かれる力。
その力に逆らわず、横に顔を向けて、そして。
「……」
 ちゅ、と小さな音を立てて、唇に触れた感覚。目に映るのは、目を閉じた監
督生の顔。伏せられた長い睫毛。
 一瞬、フリーズする思考。そして理解したのは、唇が離されてからだった。
 抱えていたものを落としそうになり、あわてて力をこめなおす。
「監督生、さん……?」
「先輩もゆでダコみたいですね」
 得意げに同じ言葉を返してくる彼女に、感じたのは敗北感だった。
 仕掛けるのは慣れていても、仕掛けられる側になるなんて。
 彼女の顔が見られない。顔中が熱い。干からびてしまいそうだ。
「完敗です。まいりました」
 彼女を降ろし、手を挙げて降参の意を示す。
 にやけてしまいそうな口元を隠して、背を向ける。
 自分の方が背が高くてよかった、と心底思った。だって、この表情を、彼女
に見られずに済むから。

お題「不意打ち」 2020/05/06公開

Leave a comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です