ふと気がついた時には、薄暗い室内にいた。闇に目が慣れてきた頃に、そこがモストロ・ラウンジだと気がついた。明かりすらなく、人の気配もない。何の匂いもしない。
 フロイドはあたりを見回し、一応声をかけてみる。
「ジェイドー、アズール?」
 自分の声がやけに響く。静寂に耳を澄ませてみても、返事が返ってくることはなかった。
「は? 俺一人で置いてかれた?」
 苛立ちに剣呑さを帯びる表情。それを見ている者もいないけれど。
 ずかずかと足音を立てて、寮の部屋に戻る。二人に文句の一つも言ってやらなければ気が済まなかった。
 ジェイドの部屋をノックなしに開ける。鍵はかかっていなかった。それどころか、部屋は無人だった。明かりもついていない。気配がないので、隠れているということもないだろう。
 それならばアズールの部屋にいるのかもしれない。そう考え、寮長の部屋へと足を進める。苛立ちはつのるばかりだった。
 部屋の入り口に着き、勢いよく扉を開ける。あっさり扉は開いたが、部屋の中は暗く、誰の姿もなかった。
「……んだよ」
 他に行き先など思いつかない。念のため、談話室の方も覗いてみるが、そこにも二人はいなかった。他の生徒の姿もない。それどころか、寮の他の部屋からも人の存在が感じられない。明かりや音の漏れも一切なく、話し声も足音も、何一つ聞こえないのだ。
 そのまま鏡舎を通り、校舎へと向かう。だが、同じだった。
 世界が夜に包まれたまま時を止めてしまったように見えた。生も死も、何も感じない。不自然に切り取られ、閉ざされた空間。例えるならばそんな感じだった。
 そんな世界に、自分だけが取り残されている。
「……海、海は」
 フロイドが振り返ると、いつの間にか海の中へと移動していた。
「ジェイド! アズール!」
 声を大きくして呼んでみる。やっぱり、返事はない。泳ぐ人魚も、魚も、海の生物も見えない。見慣れた珊瑚の海も、学園と同じように静寂に支配されていた。
「なんだよ」
 足を動かそうとして、動かないことに気がついた。
「あれ? オレなんで」
 景色は完全に海の中なのに、下に見えるのは二本の足。海底の砂についた両足が、ずるずると重みで沈んでいく。
 このままでは抜けられなくなる。直感的にそう悟り、泳いで抜け出そうとする。
 なのに、姿が変えられない。元の姿に戻れない。
「っ、!」
 人の姿のままで、こんな所にいたらどうなるか、なんて明白だ。
 恐怖を覚えた瞬間、急に息が苦しくなる。ごぼ、と音を立てて口から空気の泡が漏れる。
 いやだ。いやだ。ジェイド、アズール、誰か。誰か!
 ぎゅっと閉じた目蓋の裏に思い浮かぶのは、さっきからずっと探し求めている二人。それから、もう一人浮かんだのは。
(……小エビちゃん)
 小さくて、弱っちくて、楽しくて、美味しそうな子。ジェイドもアズールも、自分も気に入っている監督生。
 伸ばした手が水を掻く。と、次の瞬間。
 不意に手を掴まれ、引っ張られる。一瞬視界を灼いた白い光。そして。
 目を開くと、目の前には床が迫り、次いで頭に衝撃が響いた。
「ってぇ!!」
 ちかちかと視界に星が煌めいた。硬い床に勢いよくぶつけて、痛みのあまりうめき声しかでてこない。
「フロイド先輩、大丈夫ですか!?」
 すみません、すみません! と必死に謝っているのは監督生――小エビちゃんだ。
 どうやら自分の腕は、彼女に引っ張られたらしいということは理解した。
「怪我してないですか、こぶになってたらどうしよう」
 目の前にかがみ込み、顔を――正確には額のあたりをのぞき込んでくる。
 その心配そうな顔に、なぜだか安堵した。
「ちょー痛いー! 最悪ー」
 そう言って監督生の肩に顔を埋める。やわらかくて、いい匂いで、あったかい。
「ふ、フロイド先輩?」
 動揺に揺れる声が聞こえたけれど、聞こえないふりをした。
「フロイド、まだ寝ぼけているんですか」
 監督生さんに迷惑ですよ。とジェイドの声が聞こえる。
「何をしているんですかまったく」
 それから、呆れたようなアズールの声も。
「二人がオレのこと置いて行ったからだろ!」
 抗議して、監督生の背にぎゅっと腕をまわした。今は離れたくなかった。
「うん、寝ぼけてますね」
「子供ですか……」
「だって真っ暗で誰もいねーし、二人とも呼んでもいねーし、死ぬかと思ったし……」
 そうかあれは夢だったのか、と今更のように気づく。けれど夢だろうが、あんな想いはもう二度とごめんだった。
「そんな所で寝ているから、悪夢なんて見るんですよ」
 そんなところ。言葉を脳内で反芻する。だんだんと記憶がはっきりしてきた。
「ずいぶんうなされてましたもんね」
 ラウンジの片付けが面倒で、気が乗らなかったから、狭いカウンターの下に潜り込んで休んでいたのだ。窮屈だけど足を折れば入れるし、見つかりにくいと思ったからここにした。そして、疲れて眠かったからそのまま寝た。
 その結果が、さっきの夢、ということらしい。それを小エビちゃんがここから引きずり出して助けてくれた、と。
 彼女にしがみついたままでいると、そっと小さな手で背中を撫でられた。
「よっぽど怖かったんですね」
「あまりフロイドを甘やかさないでください」
「そうですよ、絶対わざとでしょう!」
 苦笑交じりのジェイドの声と、ちょっとトゲのあるアズールの声も、今は気にならなかった。子供にするように撫でてくる小さな手のひらの心地よさを味わっていると。
「まったく、仕方ありませんね」
 今度は髪を撫でられた。この、自分達より少しだけ小さく柔らかい手はアズールのものだ。
「フロイドは寂しがり屋ですねぇ」
 からかうような色を含み、背後から抱きしめてくるのはジェイド。正直、重い。
 けれど大事な人の声と温度、存在を強く感じて、さっきまでの不安は溶けて消えていた。
 しばらくして顔を上げると、みんな笑っていた。
「まだ寂しいのなら、みんなで一緒に寝ますか?」
 笑顔で告げられた、本気なのか冗談なのか分からないジェイドの言葉。
「小エビちゃんも一緒に寝る~?」
「えっ私は」
 戸惑う監督生の声に、アズールはしばし考え、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
「僕の部屋ならば床にマットを敷けば三人くらいは眠れます。あぁ、監督生さんは僕のベッドをお使いください。大丈夫、変なことは何もしませんし、させませんから」
「アズールなにいい人ぶってんの」
「あなた味方する気あるんですか」
 ラウンジに賑やかな声が響く。明るいライトが照らす室内、笑い声と人の温度を感じる空間。
 闇と静寂に包まれた悪夢の記憶は、鮮やかな色と音で塗り替えられていた。

お題「寂寥」 2020/05/08公開

Leave a comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です