光に覆われた第一世界を救い、原初世界での第八霊災も防いだ英雄。原初世界では光の戦士、こちらの世界では闇の戦士と呼ばれた彼女は、突然召喚されたにもかかわらず、正体も明かせずにいた自分を信じて最後まで戦い抜いてくれた。
 大罪喰いを倒し、その光のエーテルを自身の身体に溜め込み、彼女に苦しい想いをさせてしまった事実には今でも胸が苦しくなる。しかも、その光を引き受けて次元の狭間で散ろうとした水晶公の計画は失敗し、アシエン・エメトセルクに捕らわれる結果になってしまった。彼女はそれでも諦めず、海の底の街でエメトセルクと対峙した。
 自分が捕らわれていたことに対する悔しさや申し訳なさもあったが、無理に脱出したせいで動けるようになるまで数日かかってしまうほどボロボロになってしまった。
 傷は治癒魔法でどうにでもなったが、すぐに動くことを周りが許してくれなかった。暁の人たちにも、クリスタリウムの人たちにも、何より自分を助けてくれた彼女自身にも叱られてしまっては、強く出られるはずもなかった。
 自分の情けなさ、不甲斐なさを痛感したけれど、それと同時に、自分が辛い目にあったのにまだ水晶公――いや、グ・ラハ・ティアを心配してくれる彼女やその仲間たちの心遣いが嬉しかった。
 というわけで、しばらくクリスタリウムで身体を休め、ようやく外に出ても苦言を呈されることがなくなった頃。
 グ・ラハ・ティアは二つの世界の英雄となった彼女を星見の間へと呼び出した。
「何か望むものはあるだろうか」
 あなたに何かお礼がしたいと伝えたけれど、彼女はただ笑うだけだった。
「いいよ、気にしなくて」
 そうは言われても、自分だけでなく多くのものを救ってくれたのに何もしないでは、こちらの気が済まない。彼女の慎ましやかなところも好ましくはあるけれど、そこまで厚意に甘えるわけにもいかないかった。
「何でもいいんだ。私にできることならなんだってする。だから」
 そう食い下がると、彼女はあごに手を当てて考え始めた。
 しばし経って、何か思いついたようにあっ、と声をあげる。
 ようやく教えて貰える彼女の希望を、一言も聞き漏らさないように真剣に耳を傾けていると、彼女は一言だけ告げた。
「クリアメルト!」
「うん?」
 クリアメルトは、レイクランドにある温泉だ。光の反乱以前は温泉を名物とする宿場として賑わっていたその場所も、光の反乱以降はすっかり人も減ってしまったが。
 とはいえ、今でもその設備は療養所として使われており、疲労や傷を癒やすために訪れる者もまだまだいる。
「あそこの温泉に入りたいなぁって……ダメかな?」
 誰でも使える場所なので、彼女が入ることに何の問題もないのだが。普通に利用することに何か躊躇いがあるのだろうか。
「わかった。あなたの望む日を貸し切りにしよう」
「そこまでしなくていいよ!?」
 慌てて首を振る彼女に、グ・ラハ・ティアは首を傾げた。他に人がいることが嫌なわけではないのか。それならわざわざ自分に許可を取る必要もない気がするけれど。
「温泉に入ってみたいだけだから……療養してる人の邪魔しちゃ悪いし……」
 あぁ、と口元が緩む。
 温泉なら街でも入れるから、療養している人がいるなかで違う目的で行くことに気が引けていたのか。別に療養に使っている人がいるだけで、その為だけの施設でもないので、彼女が遠慮する必要は何もない。そう伝えると、彼女はほっと胸をなで下ろした。
「それで、グ・ラハも一緒にどうかな」
 予想外の言葉に、グ・ラハ・ティアはぱちりと目を瞬かせた。
「私も?」
「うん。ゆっくりお話したいし」
 にこにこと穏やかな彼女の笑顔に、胸がぎゅっと苦しくなる。
 彼女に向けられる好意が、嬉しくて、同時に辛かった。
「い、いや、私は……」
 あそこは水着を着用する混浴の場所だから、ともに入ること自体に問題はないけれど。水晶に侵食された身体は、とてもではないが人に見せられるものではない。たとえ彼女であっても。
「あっ、そうだよね、ごめんね、嫌ならいいんだけど……」
 けれど彼女には何か誤解をさせてしまったらしい。
「決して嫌だということはないさ。だが、この身体では温泉は向かないのだ」
 半分水晶に侵された身体。温泉に入ったところで特に害もないけれど、だからといって堂々と入ることはやはりできない。
 できないが、彼女の耳や尻尾がしゅんと垂れ下がっているのを見ると、断り切ることもできなかった。
「一緒に行くのはかまわないよ。普通に入浴することはできないが、足を浸すくらいなら問題ないだろう」
「グ・ラハはそれでもいいの?」
「あぁ、私もあなたと一緒に過ごしたい」
 これはグ・ラハ・ティアの本心だった。憧れの英雄が、愛しい彼女が、自分を誘って話がしたいと言ってくれて、こんなに嬉しいことはない。
「じゃあ、よろしくお願いします!」
「ああ、必ず」
 そうして日程を相談して、その日は終わった。

 数日後、約束通り彼女とクリアメルトにやってきた。
 戦いが続いていた時には怪我人や療養を必要とする者で混み合っていたが、今日はかなり減っている。グ・ラハ・ティアを見上げてくる彼女の視線が、何か言ったのか、と困惑の色を浮かべていたが、グ・ラハ・ティアは冷静に返した。
「戦いが落ち着いて、夜を取り戻して、療養が必要な者も減ったのだろう」
 それは半分は事実だが、半分は違う。
 英雄である彼女と水晶公がここに訪れると知られては、人が集まってきてしまってゆっくり休めないだろうと、予めクリアメルトの者たちに根回しをしておいたのだ。
 もちろん、継続して療養が必要な者たちを追い出すことにはならないよう、人の入りは上手く調整してくれている。
 何より、ずっと戦ってきた彼女や水晶公にゆっくり休んで欲しいと、話を知った者たちが協力をしてくれたのだが、当の本人たちは知るよしもなかった。
 彼女は水着に着替え、奥の温泉に入った。水晶公はその隣に座り、ローブをたくし上げ、膝下だけ足を浸ける。座っていても濡れないように、魔法を施して。
 水晶の肌は何も感じないけれど、生身の肌には湯の心地よい温かさが伝わってくる。
 湯の心地よさもあるけれど、楽しそうな彼女を見ているだけで身も心も癒やされるようだった。
「いい天気だねぇー」
 空はどこまでも青く晴れ渡っていて、陽光が優しく降り注いでいる。夜と一緒に取り戻した、本来の美しい空。
「ああ、本当に」
 原初世界にいた頃……いや、クリスタルタワーで眠りにつく前は気にも留めなかったのに。第八霊災が起きた未来や、光に覆われた第一世界で長い時間を過ごしてきて、彼女が来るまでこんな風に晴れた空を見ることはなかった。
 取り戻した夜空の美しさ、それから夜が明けて朝に移り替わっていく光景。何十年かぶりに見た光景。自然の摂理が当たり前でなかった日の真っ白な空は、今はもう見る影もなく、空の移り変わりや天気の変化、暗い夜がこの世界に住む者たちにも馴染んできている。
 彼女がこの世界に来て初めて大罪喰いを倒した日が、もう随分遠い昔のように感じてしまう。
「ありがとう、グ・ラハ」
 不意に名を呼ばれ、グ・ラハ・ティアは首を傾げた。
「礼を言われるようなことはしていないと思うが……むしろ、こちらの方がいくら伝えても足りないくらいだ」
 そう告げると、彼女はクスクスと笑った。
「一緒に来てくれて嬉しい。ずっと、ちゃんと話したいと思ってたんだ」
 彼女がこちらを見上げてくる。左右で色の違う瞳が、どちらもグ・ラハ・ティアの顔を映している。
「水晶公がグ・ラハだってはっきりわかってから、話したいことはいっぱいあった。でも、なんだかずっとそれどころじゃなくなっちゃってたから」
 そうだ、最後の大罪喰い、イノセンスを倒した後だ。あのときに名前を呼んでくれたのが最後だった。
「いざ二人きりになると言葉が出てこないね」
「二人きり……」
 しばしの沈黙。
 そう、改めて考えると、二人きりなのだ。温泉という場で。彼女は裸――いや水着は着用しているが――という状態で。
 かぁっと、顔に熱が上がる。
「そ、そこ拾わなくていいからっ!」
「す、すまない」
 心なしか、彼女の顔も赤くなっている。きっと湯のせいだけではないだろう。
「……いっぱい、あったのにな」
「あなたの話ならいつだって喜んで聞くさ」
「うん」
 それからまた、沈黙が流れる。時折風が運んでくる自然の音や、遠くに聞こえる人の声。
 束の間だとしても、穏やかで、平和なひととき。
「なんだか眠くなってきちゃった」
「眠っても構わないよ。私がここにいるから」
 風呂で眠るのはあまり勧められたことではないが、隣に自分がいるのだから今くらいは好きに休んでほしかった。
「絶対、だよ」
 そう言い残して、彼女の体がこてん、と水晶公の足にもたれかかる。
 眠気でふわふわした思考の中発した言葉に、深い意味はないのかもしれない。けれどその奥に、もういなくならないで、という願いが込められていた気がした。
 胸の奥が苦しい。どうしようもなく熱い。
 あぁ、もう、こんな感情とうに失くしたと思っていたのに。
 グ・ラハ・ティアは彼女の髪をそっと撫でる。陽に透けるような淡い金色が、さらりとこぼれて落ちた。
 彼女はオレの憧れで、英雄で、大事な仲間で……それだけでなくただ一人の女性として愛おしい、と。
 そんな風に想っていることに気づかされてしまった。
 ずっと傍にいたい。離れたくない。このまま時が止まってしまえばいいのに、なんてありきたりの恋愛小説か。
 この先の未来がどうなるか分からない。彼女も暁の仲間たちも、いずれは原初世界へ還ってしまう。自分が一緒にいられるかどうかなんて、叶うかはまだわからない。けれど……。
 触れる熱の愛おしさだけは、ずっと忘れないでいたい。
 この先がどうなっても、この想いはきっと変わらないから。

 2023/03/19 公開