「賢者様」
 燃えるような赤い髪と宝石のような美しい緑色の瞳をもった、綺麗な顔立ちの青年。長身に白衣をまとい、けだるげな空気をまとった彼は、いつも通り目の下に隈を作った眠そうな瞳で、じっとこちらを見下ろしている。
 ただでさえ身長差があるのに、今は談話室の大きなソファに座っているので、目の前に立たれると壁のような威圧感があった。
 あぁでも、よかった、今日はいつも通りだ。そのことに安堵を覚えて賢者と呼ばれた女性――晶は頷いた。
「なんですか、ミスラ」
「今日は普通なんですね」
 つい数秒前に自分が思ったのと同じようなことを言われ、賢者はぱちりと目を瞬かせた。
「私はいつも普通ですよ?」
「最近俺のこと避けてるじゃないですか」
 少しむっとしたような顔で、ミスラは言ってくる。避けているつもりは……いや、思い当たることは正直あった。
「そ、そんなことないです」
 焦って出た否定の言葉は、余計に怪しまれるだけだと自分でも気がついた。
「あなた嘘吐くの下手ですよね」
 ミスラは呆れ顔で肩を竦め、面倒そうに溜め息を吐く。
「なんで俺から逃げるんですか、賢者様」
「いやー、それは……」
 むしろこちらは、ミスラの方に問いただしたいくらいなのだが。
「答えてください賢者様。晶」
 わざわざ呼び名を訂正し、迫ってくる。
「それ! です!」
 賢者は思わず大きな声を出した。
「なんですか、今まで賢者様、なんてかしこまった呼び方してたのに、なんで急に晶って名前で呼ぶんですか」
「だってあなたの名前は晶でしょう」
「そうですけど、そうじゃなくて」
「はぁ、どう呼ぼうと俺の自由じゃないですか」
「いやまぁ、そうなんですけど」
「大体、賢者様だって俺のことミスラって名前で呼ぶじゃないですか」
 まったくもってミスラの言うとおりなので、返す言葉もない。
 そう呼ぶようになったきっかけも分かっている。お茶を飲んで、長時間寝込んでいた、不思議な夢をみた時のことがきっかけだと。
「でも、ミスラに晶って呼ばれるのは、なんか……」
 理不尽な返答だとは自分でも思う。これで納得するとは思っていなかったが、ミスラはますます不機嫌そうに顔をしかめた。
「オズには呼ばせてるのに?」
「オズは良いんです!」
 だって安心するものだから。あの人に名前を呼ばれるのは、信頼の証であり、賢者ではない私をつなぎ止めてくれるものだ。
「はぁ? オズは良くて俺はダメなんですか?」
 しかしそんなことはミスラには関係ない。これ以上ないほどの藪蛇だ。明らかに不機嫌、どころか殺意のこもった空気を出して、すごんでくる。鼻先が触れそうなほど顔が近い。綺麗な容姿をしているから、険のある顔も絵になる……などと暢気なことを言っていられないほど、ミスラは物騒な相手だけれど。
「だって……」
 ミスラに呼ばれるのは違う。全然違う。どう、という答えも自分のなかでもっていたけれど、それを正直に告げるのはためらわれた。
「はぁ、嫌がられると余計にそう呼んでやりたくなりますね」
「子供ですか!」
 ミスラが意地の悪いことを言うのは今に始まったことではないけれど。
 ぐい、と抱き寄せられ、耳元に顔を近づけられる。
「晶」
 悲鳴を上げそうになったのはなんとか飲み込んだ。身体を離そうとするけれど、ミスラの力でがっちり抱きかかえられていては逃げようもない。
「あきら」
 吐息を感じるほどの距離で、囁くように紡がれる名前。なんですかその、恋人に囁くような甘い声。……この人、顔だけじゃなくて声もいいからずるい。
 いや、魔法舎にいる魔法使いたちは、大体みんな顔も声もいいのだけど……。
 その中でも、ミスラは特別だった。
 一番優れている、というわけではない。それはきっと見る人によって違うだろうから。
 単純に、賢者――晶にとっての、特別な人だからだ。
「も、やめてください、しんじゃう!」
 ぐい、と強引にあごを押しのけ、無理矢理身体を引き剥がす。
「呼んだくらいで死ぬわけないでしょう、呪術を使ってるわけでもないのに」
 不満そうな声。いや、その不満はよくわかるけれど。
 顔が上げられない。背け続けるにも限度がある。肩を掴まれて無理矢理顔をあげさせられそうになり、往生際悪く顔を反対に向けようとする。
「……賢者様」
 元に戻った呼び名に、笑みが含まれていることには気がついた。
「どうして、俺に名前を呼ばれたくないんですか?」
 繰り返される質問。あぁ、でもこれは。答えを知っていて、訊いている。
 ソファの上で、覆い被さるように迫ってくる。耳にかかる髪を払い、指先でやわらかく触れられた。
「俺のこと、好きなんですか?」
 鼓膜を震わせる低い声もかかる吐息も、全部毒のようだった。流し込まれたところから、全身にまわって、あつくなる。
「心臓に悪いっ!」
「ねぇ、賢者様。……晶」
 肯定でも否定でもなく返すと、また直接名前を呼ばれて、そして。
 ちゅ、と小さな音、耳に触れた、指先とは違うもっと柔らかい感触。
 混乱する思考と、得意気に見下ろす緑色の瞳。
 それから、今度はあごを掴んで上向かされて、唇を塞がれた。
「……!」
 キス、された。動揺し言葉もでなくなっていると。ミスラは賢者の左胸に触れ、楽しそうに笑った。
「あはは、速くなってますね」
 人の身体を、まして女性の胸をいきなり触るのはどうなのか、それ以前になんで突然キスしたのか、なんて言いたいことは山ほどあるけれど、それをミスラに言っても仕方が無い、と口にするのは諦めた。
「ミスラといると早死にしそうです」
「それは困るな」
 そう言うと、あっさり身体を離してきた。
「呼ぶのは二人だけの時にします。それならいいでしょう」
 何一つ良くはない気がするのだけど、言うだけ言って去ってしまった。
 一人残された賢者はソファに崩れ落ちて、唸った。
「なんで、好きになっちゃったかなぁ……」
 そのぼやきは誰にも届くことなく、空に溶けていった。

お題「呼び捨て」 2020/05/07公開

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