「ふぅ、帰ってくるとほっとしますね」
 こちらの世界に来てからもう住み慣れた魔法舎。その入り口に戻って来て、賢者は深い溜め息を吐く。
「今日はありがとうございました、賢者様」
 恭しくお辞儀をするのは、この中央の国の王子でもあるアーサーだ。賢者に会いたいという人物がいると言われ、しかもそれが国の結構偉い人だったらしく、アーサーに連れられて正装で城へと赴いていたのだった。
 普段着ないような美しいドレス、綺麗に結い上げたて飾りをつけた髪、丁寧に施された化粧。鏡の中の自分は、なんだか別人のようだった。
 ドレスなんて持っていなかったから、城の人が用意してくれたものだ。少しだけ大きいけれど、気にならない程度だった。青を基調としたもので、金糸の刺繍や宝石で飾られている。
 髪と化粧を担当してくれたのはシャイロックだった。会った人みんなが褒めてくれて、気恥ずかしいけれど嬉しかった。
「ただいまー!」
「おや、賢者様。今日は一段と素敵ですね」
 クロエの元気な声と、ラスティカの落ち着いた笑顔。二人は数日前から出かけていたので、この姿を見たのは今が初めてだった。
「ありがとうございます。二人とも、おかえりなさい」
 何度褒められても、やっぱり嬉しいものは嬉しい。最初は抵抗があったけれど、アーサーの頼みを引き受けてよかった、と思えた。
「……うん、賢者様、とても素敵だ」
 そう言ってクロエは笑うが、どこか陰りがあるような気がした。
 このドレスはクロエの趣味ではなかったのだろうか。それとも、みんな褒めてくれたけれど、本当はあまり似合っていないのだろうか。
 雑談している裏でそんなことを考えていると、二人は部屋に戻り、アーサーもオズに挨拶をしに行ってしまった。
 とりあえずこのドレスを脱いでしまおう。楽しかったけれどこのままでは落ち着かないから、普段着に着替えてしまいたい。
 そうして賢者も、自室へと戻っていった。


「はぁ……」
「どうしたんだい、クロエ」
 クロエとラスティカは食堂でお茶を淹れて、少し遅めの――ほとんど夜食のような時間だが――ティータイムを楽しんでいた。
 いや、時間など関係ない。楽しもうと思った時が、ティータイムのタイミングなのだ。魔法舎に戻って来てほっと一息吐いたのは、二人だって同じだった。西の方で大きな市があったから、泊まりがけで裁縫の素材などを探しに行ってきたのだ。良い物が買えたし、ラスティカと二人で泊まりがけで出かけるのも久しぶりで、楽しかった。
 楽しかったのだけれど。
「俺、……嫌な子だなって」
 組んだ手元に目を落とし、クロエはまた溜め息を吐く。
「どうして?」
 ティーカップを持ったまま、ラスティカは普段と変わりない調子で訊ねてきた。
「賢者様のドレス見て、色々考えちゃって」
 言葉を選ぶように、考えながら少しずつ心の内を口にしていく。
 ラスティカはお茶を一口飲んで、クロエの言葉を急かすでもなく待っている。
「なんていうか……賢者様のドレス、もちろん素敵だったんだけど。仕立てが良い物だってすぐに分かったし、アクセサリだって豪華だった。でも、俺だったらもっと素敵にできたのに、って、思っちゃって」
 感情をはっきりとした形に整理して、クロエは自分に言い聞かせるように頷いた。
「俺だったら賢者様に一番似合うドレスを用意できた。アクセサリだって。仕立てる時間がなくても、一緒に選んであげられたのに、って」
 ラスティカはマイペースにお茶を飲みながらも、じっとクロエの言葉に耳を傾けている。
「……賢者様を着飾るなんて、一番楽しくて幸せな時間を、誰かにとられたことが悔しかったんだ。その役目は、俺だけのものじゃないのにね」
 クロエは言い終えると、盛大な溜息と共に机に突っ伏した。クロエの側に置かれたカップの中のお茶が、その勢いで小さな波を立てる。
「それなら、その楽しい時間をクロエも作ればいい」
 ラスティカの言葉に、クロエは顔を上げる。ラスティカは優しく穏やかな微笑を、クロエに向けている。
「さっそく賢者様のお部屋に向かおう」
「今から!? は流石に、迷惑だよ」
 もう寝てるかもしれないし。慌てて引き留めると、ラスティカは頷いた。
「それなら明日でも、明後日でも、賢者様の都合のいい時にお願いすればいい」
「でも、嫌じゃないかなぁ」
 自分は絶対に楽しいと思うけれど、特別な用事もないのにドレスを着るなんて、それに付き合わされて賢者は喜ぶだろうか。不安げに視線をさまよわせるクロエに、ラスティカは自信たっぷりに告げてきた。
「もちろん賢者様も喜ぶよ。クロエのドレスは、世界一素敵だからね」
 ようやくクロエは、明るい笑顔を見せた。そうして、もう冷めてしまったお茶に口をつける。
 と、その時。
「あれ、クロエ、ラスティカ、こんな時間にお茶ですか」
 食堂に入ってきたのは賢者だった。いつもの服に着替え、髪も降ろして化粧も落としている。飲み物でももらいに来たのだろう。もう寝るような時間だ。
「えぇ、賢者様。ちょうどあなたの話をしていた所なんですよ」
「私の話ですか?」
 クロエが慌ててラスティカに視線を向けるが、彼は表情一つ変えない。クロエは一度深呼吸して、それから思い切って口を開いた。
「あのね、賢者様。俺、賢者様に――」
 クロエの申し出に、賢者は驚きに瞳を見開いた。けれど、それが花開くような笑顔へと変わるまで、そう時間はかからなかった。

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