戦い傷ついた貴銃士も癒せないで、何がマスターか。
 手の甲にある薔薇の傷からは赤い血が滲んで、ずきずきと痛みを訴えている。
 けれどそれ以上に、目の前にある傷だらけの褐色の肌をーーアリ・パシャさんの身体を見ているほうがつらかった。
 力が使えないのならせめて、と消毒して包帯やガーゼで処置をしているけれど、それで彼の痛みが軽くなるわけではない。
「ごめんなさい……」
 自分の無力さが悔しい。泣きそうになるのをこらえていると、アリ・パシャさんは呆れたような溜息を吐いた。
「なにを謝る必要がある。少々不覚をとったが、目的は果たしたのだ」
「でも、怪我してるのに治してあげられなくて」
「お前の力など最初からあてにしていない」
 きっぱりと言い切られて、余計に胸が苦しくなる。俯いていると、また溜息が聞こえた。
「お前が弱いのは分かりきっていることだろう」
「……」
 分かっている。だからせめて、自分にできることをして役に立ちたいのに。私のもつ治癒の力は、有限だ。一気に力を使ってしまうと、マスターの証である薔薇の傷が悪化し、最悪自分が倒れることになる。少し休めば多少は回復するけれど。
 今日は他の貴銃士たちの治療もしていて、自分の限界を感じていた。それでも我慢して治療しようとしたら、険しい顔で止められてしまった。
 処置を終えて道具を片づける。こらえていた涙がついに溢れて、私は傷がない方の手で涙を拭った。けれど一度溢れた涙はそう簡単に止まらなくて、必死に声を抑えるけれど、そんなのはもう無意味だった。
 アリ・パシャさんが近づいてくる。私は距離をとるように、衛生室の隅まで逃げた。壁の方を向いていれば、情けない顔までは見られないだろう。
「まったく、いちいち泣くな」
「だ、って……、っ!」
 肩を掴んで振り向かされ、その瞬間に、唇がふさがれて。息が止まるかと思った。思わず目を見開いていると、吐息を感じるほど近い距離で目があった。
「なっ、なに、するの」
「黙っていろ」
 反論すらさせてもらえないまま、もう一度キスをされた。
 今度は舌を絡められて、口腔内の隅々まで舌を這わされる。
 飲み下しきれなかった唾液が零れて、首筋にまで伝っていった。慰めるような優しいものではない、ただ蹂躙するようなそれに、抗うこともできずただ奪われる。
 もたれていた壁にそってずるずると座り込むと、愉しそうにアリ・パシャさんは笑った。
「なんだ、お前はこっちも弱いのか?」
「ちがっ、びっくりした、だけ、で……」
 まだ呼吸も整わないまま、否定の言葉を告げる。
「お前は嘘を吐くのが下手だな。それで強がっているつもりか」
 嘘なんて言っていない。喉元まで出掛かった言葉は、声にならなかった。鼓動は速いし身体は熱い。
「それとも自覚がないのか? そんな物欲しそうな顔をして」
 アリ・パシャさんは覆い被さるようにして、距離を詰めてくる。薔薇の傷がある方の手首を掴まれ、もう片方の手はあごに添えられ、上向かされる。こんな風に追いつめられては、逃げようもない。
「欲しいなら、くれてやらんこともない。どうなんだ?」
 何を、なんて問いはきっと無意味だ。
「逃がしてくれる気なんて、ないくせに」
「逃げたいのか? ならば全力で抵抗してみればいいだろう」
 痛くはないけれど振りほどけない程度の力で押さえつけて、人を追いつめて、抵抗なんてできるはずが。
「っ、大体、あなた怪我人じゃないですか!」
「はっ、これくらいの怪我で俺様がどうにかなるとでも?」
 傷だらけなのに、いつも以上に獰猛な輝きを秘めているのはきっと気のせいではないのだろう。
「……それに、多少は気も紛れる」
 手負いの獅子。
 そんな言葉が浮かんだ瞬間、アリ・パシャさんの口の端がつり上げられる。今にも舌舐めずりしそうな、肉食獣を思わせる笑み。
 今の彼は完全に捕食者だ。食べられてしまう。背筋が震える。けれどそれは恐怖ではなくて。
 自覚してしまえば、一気に熱が上がる気がした。甘美な誘惑に浮かぶ恍惚。
 まだわずかに残る理性が引き返せと訴える。相手は怪我人だし、大体まだ明るいうちから、こんなところで。
 後退さろうとしたが、壁にぴたりと背がついただけだった。
 いやいやをするように首を振るけれど、彼はますます笑みを深くした。
「アリ・パシャ、さ、……っ」
 せめてもの抵抗に名を呼んだ声は、言い終わる前に唇ごと奪われる。
 呼吸が止まりそうなほど、荒々しい口づけ。深く舌を絡められて、濡れた音がやけに響く気がして、羞恥に顔が熱くなる。
 どれほどそうしていたのか、解放されたときにはすっかり息があがって、身体に力が入らなくなってしまっていた。アリ・パシャさんの胸にもたれかかると、低い笑いが耳元で聞こえた。
「……最初から素直にそうしていろ」
 それからほんの少しだけ、優しくなった声と共に髪を撫でられて。
 熱があがる。私の鼓動は、しばらく落ち着きそうもない。

 2019/05/22公開

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