食堂が昼のピークを過ぎ、片付けの手伝いも一段落した頃。
 恭遠に指定された召集時刻が近づいていることに気づき、タバティエールは作戦室へと向かった。
 指定された時刻より十分ほど早いが、そこには既に恭遠とマスター、それからラップの姿があった。
 卓の上には一枚の地図と屋敷の見取り図らしき紙が広げてある。恭遠はマスターとなにやら話していて、ラップは見取り図を見ながらあれこれ考えているようだった。
 タバティエールの後から入ってきたのはアレクサンドル。優雅にお辞儀をしてから、卓の側に寄る。
「悪ぃ、遅くなった」
 言いながら、時間ぎりぎりに駆け込んできたのはキセルだった。集まりが早いだけで遅刻しているわけではないが、走ってきたのか額には汗が浮かんでいた。任務か私用かは分からないが午前中から出かけていたから、戻ってきたばかりなのかもしれない。
「揃ったようだな。では始めよう」
 恭遠の言葉に、注目が集まる。
「今回はとある屋敷への潜入作戦だ。マスターも参加する」
 そう言ってから、恭遠は首を振った。
「いや、今回の作戦の中心は彼女だ。彼女と一緒に、夜会に入り込んで調査をしてもらう」
 マスターの方を窺うと、何の表情も読みとれなかった。俯いたまま、作戦概要の書かれた紙に目を落としている。
「もちろん危険が伴うのは承知の上だ。……マスターの安全が最優先、分かっているとは思うが、いざというときは情報を捨て置いても彼女の身を優先してくれ」
 貴銃士たちが頷く。
「それで、それぞれの担当だが」
 手元の紙を見ながら、恭遠が説明を始めようとした時、マスターが口を開いた。
「ラップ。あなたには、私の夫になってもらいます」
 マスターの口から告げられた言葉に、横っ面を思いっきり殴られたような衝撃を受けた。
「承知しました」
 淡々と答えるラップの声。知っていたのか知らずなのか、動揺している様子はなかった。
 止まる思考。けれどすぐにまわり出して理屈を組み立てていく。
 いや、これはあくまで作戦なのだ。容姿、立ち居振る舞い、戦闘能力、判断力、その他諸々。夜会への潜入ということならば、このメンバーで最も適任なのはラップだろう。いざというときには、一人でマスターを守りながら戦うことも想定されるのだから。
 納得の判断だ。自分が作戦を立てる側であっても、同じ選択をするだろう。けれど。
「キセルは情報収集をメインに。タバティエールは退路の確保をしつつ、状況次第で戦闘に」
「ああ」
「……了解」
 いつも通りの笑みを浮かべてみせるが、内心は穏やかではなかった。ちらりとマスターの方を見たけれど、彼女がこちらに視線を向けることはなかった。
 彼女は貴銃士たちのマスターである前に、一人の大人の女性で、レジスタンスの一員のメディックだ。作戦に私情を挟むことはないだろう。
 ――恋人である自分の前で、他の男と夫婦の演技をするなんていう作戦でだって。
 ラップを選んだのは純粋に能力や人柄で、ラップもまた、貴銃士としてマスターを大事に想ってはいるが、恋情を抱いているわけではないのも知っている。
 ただ、それでも、感情がついていかない。
 もし自分が隣に立つことになったら『俺には荷が重い』って逃げるくせに。なんてずるい男なのだろう。
「ではマスターとラップさんは一緒に来てください。カーチャと共に、衣装合わせをさせて頂きますので」
「ええ、分かったわ」
 そうしてマスターはラップと共に、アレクサンドルについていった。
 隣にいたキセルが、こちらに目を向けている。サングラス越しの『オン』の状態でも何を考えているかは分かる。自分を心配してくれているのだろう。彼女と自分が恋仲であることは、今やレジスタンスのほとんどに知れ渡っているのだから。
 曖昧に笑ってひらひらと手を振り、懐から煙草ケースを取り出す。
「俺は一服してくるわ。おつかれさん」
 不自然なほどに、いつも通りを演じてみせる。恭遠もマスターも、こんな事情で作戦を変えたりしない。タバティエールも文句を言うことはない。マスターが危険な目に遭う可能性を考えないではないが、それこそラップと他のサポートに入る貴銃士たちを仲間として信頼している。むしろ、こんな調子の自分が下手踏まないかを心配するところだ。
 作戦の決行まで数日。重暗い気持ちを抱えたまま、タバティエールもマスターも特別な言葉を交わすこともなく、過ぎていった。

 

 そして作戦の当日。屋敷の庭、警備の死角となる場所で、タバティエールは待機していた。
 マスターとラップは夜会の装いに着飾り、屋敷の中だ。それからアレクサンドルとキセルもそれぞれの配置についている。
 どうにもイライラして仕方ない。煙草が吸えないから、というわけではないが、こんな時に煙草も吸えない、というのはなかなかの苦痛だった。気を紛らわせることもできない。
 今回は目立たないようにしなければいけないため、においがついてしまう煙草は今日は全く吸っていない。作戦中に禁煙を命じられること自体は別に初めてでもないし、作戦のメンバーによっては長時間吸わないことも多い。完全に辞められそうにはなくとも、普段ならば少しの禁煙で心を乱したりはしないのだが。原因が他にあるのだからどうにもならない。
 代わりにはならないかもしれないけれど、せめて、とマスターに渡された飴を、包みをほどいて一つ口の中に放り込む。清涼感のあるミントが口の中に広がった。嫌いな味ではないけれど、せっかくもらったものだというのに、今の憂鬱な気分には爽やかなこの味は重たかった。少し溶けたところで、ガリ、と音を立てて噛み砕く。
 自分は今、とても人に見せられないような顔をしているのだろう。でも、誰が見ているわけでもない。
 挨拶や食堂でのちょっとしたやりとり以外で、数日ぶりにまともに会話したのがそれだった。作戦前に、彼女はなぜか申し訳なさそうに飴をよこしてきた。彼女なりに気遣ってくれたのだろうが、残念ながらそれで気がはれるほど、自分は若くもない。
「嫌だねぇ……まったく」
 高貴という言葉に相応しい装いのラップと、夜会のドレスをまとった、いつも以上に美しいマスターと。二人が愛しそうに互いを見つめ、言葉を交わし、踊り……似合いの夫婦と周りの目を引きつけるのだろう。
 あぁ、考えたくもないというのに。どうしてこんなことばかり考えてしまうのか。
 胸の内に沸き起こったどろどろとした感情を自覚して、タバティエールは重い空気を吐き出すように深いため息をついた。

 

 作戦はつつがなく終了した。誰かに気付かれることもなくキセルは必要な情報を集め終え、給仕に扮していたアレクサンドルは完璧に立ち回っていた。
 もちろんラップとマスターも、夜会の客として場に溶け込み、情報を集めていた。自分は特に何もしていない。必要なかったのではないかと思ってしまうほどに。――いや、そう言えるのは何事もなかったからであり、有事の際にはかなり責任が重くのしかかる位置を任されていたのだということを、理解していないわけではないのだが。
 少し離れた指定地点で集まり、それから基地へ戻る。
 到着した時には夜もすっかり更けていたが、その足で作戦の終了を恭遠に報告する。そしてそのまま解散となった。詳細な報告書は明日、ラップが中心にまとめるだろう。
 本日の仕事は終わり。タバティエールは基地の奥の森へ向かった。やっと煙草を口にできる。作戦終了後、屋敷から離れたタイミングで一服するくらいの時間はあったのだが、苛立ちが顔に出てしまいそうだったからやめておいた。それに、マスターやラップが身につけている高そうな衣服ににおいを移してしまうことにも抵抗があった。
 ようやく一人になれる。
 任務から解放されて、今日初めて、やっと人心地ついた。
 この一本を吸い終えたら、シャワーを浴びて酒でも飲もうか。今日のメンバーは全員、明日は休日だ。この時間に飲み始めても文句は言われないだろう。食堂に誰かいるかは分からないが、一人酒だってかまわない。
 あれこれと考えていると背後から足音が聞こえた。ちらりと振り返り、また視線を手元に戻す。
「こんな所にいたらせっかくのドレスが汚れちまうぜ」
「そうねえ、エカチェリーナが一生懸命着飾ってくれたものだから」
 汚してしまうのは忍びないわね。そう言ってマスターは笑った。
 ならば、なぜわざわざこんな所に来たのか。なんて質問するのも野暮というものだろう。
 自分がここにいると思ったから、彼女は来たのだ。ただ様子を見に来ただけなのか、それとも理由があって会いに来たのか……までは測りかねるが。
 タバティエールは煙草の火を消し、諦めて振り返る。
 そこに立っていたのは、夜闇の中でも分かる、濃紺のドレスをまとった美しい女性だった。月明かりに照らされて、髪飾りやアクセサリーの銀や大粒の宝石が光輝く。
「やっとこっちを見てくれた」
 そう言って微笑む彼女は、ドレスや宝石よりも輝いてみえた。眩しいくらい。口説き文句としては月並みだが、口に出しているわけではなく、ただ思っただけだ。
「俺の様子見か? 仕事熱心だねぇ」
 棘のある言い方を自覚して、自分に嫌気がさす。けれどマスターは気にした風もなく、穏やかに微笑んでいる。
「あら、マスターの仕事は今日はもう終わりよ」
 だったらなぜ。その疑問が声として発せられる前に、マスターが口を開いた。
「あなたに一つ、お願いしたいことがあって」
 ほどなく日も変わろうかというこの時間に頼みごとをされるとは思わなかった。夜食でも作れというのだろうか。マスター、いや彼女に頼られるのは嬉しいし、できうる限り引き受けたいと思ってしまうけれど。
「ついてきて頂戴」
 そうしてタバティエールが連れてこられたのは、宿舎の奥の一室だった。途中で気がついてはいたが、たどり着いたのはマスターの部屋だ。
 よっぽど内密な仕事なのか、と首を傾げる。
「それで、頼みごとってのは」
 扉を閉めると、マスターはくすくすと笑った。
「口実にしては色気がなさすぎたわね」
 こうじつ、口実。と頭の中で反芻する。
「このドレス、一人じゃ脱げないの。……だから」
「……それは誘ってるのかい? マスターちゃん」
 本当は訊かずとも分かっていた。この基地にいる貴銃士は全員男性の姿で顕現している。けれどレジスタンスのメンバーの中には人間の女性もいる。今だって、衛生室には女性のメディックがいるはずだ。着替えたいだけならば別にタバティエールにわざわざ頼まずとも、同僚である女性に頼めば済む話なのだ。
「意地悪ね。……分かってるでしょう」
 マスターがドレスの裾をつまみ上げると、スカートがふわりと広がった。
「あなた、ちっとも私のこと見てくれないんだもの」
 さっきも言われたが、彼女はよっぽどそれが不満だったのだろう。
「こんなに綺麗なマスターちゃんを見たら、そのまま浚いたくなっちまうだろ?」
 おどけて言ってみるが、今更取り繕ったところでなんだか格好がつかない気がした。
「なんて、な。本当は、綺麗な姿で他の男の隣にいるのを見たくなかっただけだ。格好悪いだろ、分かってるよ」
 マスターは目を瞬かせた。それから、ふふ、と声を出して笑った。
「あなたも嫉妬することなんてあるのね」
「……そりゃあ、あるさ」
 もう諦めて白状する。視線を逸らして、がしがしと乱暴に髪を掻いた。
「好きな人にそう言ってもらえるのは、案外嬉しいものなのよ」
 マスターは自らの胸元に手を当てて、胸を張ってはっきりと告げる。
「ドレスを着せてもらうのも、一緒に踊る相手も、私の信頼する貴銃士たちに任せられるわ」
 貴銃士たちが彼女を信頼するように、彼女もまた、貴銃士たちを信頼してくれている。それはよく分かっている。
「でも……あなたにしか任せられないこともあるのよ、タバティエール」
 マスターはタバティエールの手を取った。白い布手袋越しにも伝わってくる、温かさ。
「あなたは私の恋人なんだから」
 その一言に、血が沸き立つような感覚を覚えた。急激に体温が上がったような、いや、そんな生易しいものじゃなくて。
 どろどろした感情を溶かして、それからもっと煮詰めたみたいな強い熱。身体の奥に直接火をつけられたのではないかと思うほどの激情。
 これが愛であり欲であり、彼女がいなければ持ち得るはずのなかった、ある意味で彼女が与えてくれたもの。
 得意分野のはずの、気の利いた口説き台詞さえ今は浮かばなかった。
 ただ言葉に代わりに、彼女の唇を奪った。

 

 イヤリングを外し、耳に口づける。顔を近づけると、香水だろうか、甘いにおいがふわりと香った。もう片方のイヤリングも同じように外すと、サイドテーブルの上に並べて置いた。それから首の後ろに腕をまわして、ネックレスを外す。イヤリングと揃いの大粒の宝石がついたそれは、絡まないように丁寧に置いておく。
 髪をまとめていた髪飾りを外すと、マスターの長い髪がふわりと背に落ちた。
 今度は手袋を引き抜くと、しっとりとした白い指先があらわれる。その指も爪も飾られておらず、右手の甲に薔薇の傷があるだけだった。
 タバティエールは浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「指輪は」
「してないわ。……これだけは、我が侭言っちゃった」
 悪戯っぽくマスターは笑う。
「私も、ラップも、手袋の下に指輪はしていない」
 その意味を理解した瞬間、にやけてしまいそうになって慌てて視線をそらした。
 マスターは傷もあるし、夜会中に手袋を外すことはないだろうが、それでも、夫婦という変装に完璧を求めるのならば揃いの指輪は必須だろう。万が一の際に指輪をしていないことで疑われる可能性はあるし、指輪一つで疑いを減らすことはできる。
 本物の誓いをするまでは、誰のものにもならないのだろう。
 ……その相手が自分で在れたら、と思いはするけれど。
 自分のものにしてしまいたい。誰のものにもならないでほしい。矛盾した感情を抱きながら、タバティエールはその指に口づけた。
 そして、背中に腕を回して、そのドレスを脱がせていく。身体のラインにぴったりと沿い、彼女の魅力を引き出していたドレスは、細かな装飾や繊細なレースも使われていて、確かに一人で脱ぎ着するのは難しいかもしれない。
 タバティエールも扱い慣れているわけではないが、そこは持ち前の器用さで難なくこなし、汚れ一つつけないように、机と椅子を使って掛けておいた。
 改めてマスターの方に視線を向ければ、いつもより布面積の少ない、少々大胆にもみえるラインの下着に、思わず視線を奪われる。
「これは、また」
「……ラインがでないように着ていただけで、深い意味はないわよ」
 恥ずかしいのか、牽制するように軽く睨まれる。
 下着姿も、裸だって何度も見ているけれど、いつもと違う姿はそれだけで興奮を煽られる。しかもこの姿を見るのは自分だけに許された特権だ。
 いや、見るだけではなくて、それ以上のことも。
 アクセサリーも、ドレスも、靴も、彼女を着飾っていたものは取り払われた。白い肌に纏っているのは上下の下着だけ。それでも彼女は、何よりも美しいと思った。
 ベッドの上で仰向けになり、胸の上で手を組んで、マスターは所在なく視線をさまよわせている。
 覆い被さる体勢で、マスターの頭の横に手をつくと、マスターは自分の方を見上げてきた。
「マスターちゃん」
 頬に手を添え、もう一度唇を重ねる。今度は深く、貪るように。
 口腔内を余すところなく舌で愛撫して舌を絡める。応えるように腕を背中にまわされると、どろどろと心の奥底に澱のように沈んだ感情が溶けていくのを感じた。
 爽やかな飴でも、慣れた煙草でも満たせなかった飢餓感にも近い衝動が、ようやく満たされる。
 唇を解放し、今度は首筋から鎖骨、胸の方まで雨のようにキスを降らせていく。痕は残さず、唇で愛撫するようにただ優しく触れていった。痕を残してしまいたい気持ちはあるが、見えやすい場所につけてしまえば彼女の生活に支障が出てしまう。
 下着を取り去って直接胸に触れ、柔らかく揉みしだくと、指の動きに合わせてふにゃりと形を変えた。指だけでなく舌も使って刺激を与えれば、マスターの口からは上擦った声があがった。
「あ、っ……」
 感じる箇所なんてとうに分かっている。甘やかすように、いくらでも彼女が好きな所に触れて、ただひたすら快感だけを与えていく。
 もっとも、それは時に優しさではなく暴力的にもなるのだけれど。
「んぅ、あ……」
 その白い肢体が上気して赤く染まり、シーツの海で、魚のようにびくびくと身体を跳ねさせる。綺麗だ、と思った。
「タバティエール、あなた、今日はやけに、意地悪ね」
 上がる息の合間に、それでもはっきりと告げられる。別にそう意識してやっていたわけではないが、この手で存分に乱したかったのは否定できない事実だ。
「それは催促かい? マスターちゃん」
 そのまま下肢へと手を滑らせ、秘されたあわいに指で触れる。薄い布越しでも分かるほどに、そこはしっとりと濡れていた。
「……、あなただって」
 マスターの細い指が、腹から下へと降りてくる。ためらいなく中心に触れられ、タバティエールは曖昧な笑みを浮かべた。
 愛しい人に触れて、乱れる姿を見ていて、反応するなという方が無理だろう。
 彼女の指はそのままベルトを外し、スラックスをくつろげた。下着をずらしてそれを取り出されれば、諦めて彼女の横に身を落ち着けた。
 互いに触れ合うその行為は嫌いではないけれど、マスターの綺麗な、人を癒す手が、自身の欲に触れているというのは妙な気分だった。互いに大人なのだからただの愛撫、別に気にするようなことでもない、と思うのかもしれないけれど。神聖なものを侵しているような、悪いことをしているような落ち着かない心地になる。
 もっとも、彼女と身体を重ねておいて今更ではあるのだが。自分がするのと、されるのとでは気分的に違うのだ。
 何より、あまりその手に触れられていると保たなくなりそうで。
「……ん」
 唇を重ねると、鼻にかかった甘い声がこぼれた。キスを交わしながら、互いの愛撫に身をゆだねる。
 共にした夜の数だけ、きっと互いを知っている。気を抜いたら持って行かれそうで、だんだんと余裕が奪われていった。
 指を増やして奥まで探ると、蜜をこぼして溢れるそこは、求めるように強く締め付けてくる。
「マスターちゃん、もう、いいか」
 指を引き抜いて問いかければ、マスターはこくりと頷いた。
 自分の声が、思いの外余裕を失っていたことを自覚して苦笑する。
 蜜で潤う彼女の秘所に、自らの昂る欲を押しつけて、ゆっくりと中に入り込んでいった。
「あ、ん……っ」
 高くあがる声と、誘うように絡みつく熱に、どうしようもなく興奮させられた。それでも懸命に理性を繋ぎ止めて、彼女の呼吸が落ち着くまで待って、少しずつことを進めていく。
 冷静さなんてさっさと手放して、欲のまま愛しい人を抱けるような性格ではなかった。自分よりも相手のことを優先してしまう。
 彼女より少し歳上だからとか、男としてのプライドだとか、言い様はいくらでもあるかもしれないけれど。
「タバティエール」
 彼女の花開くような笑顔。自分を呼ぶ声。背中にまわされる腕のぬくもり。
 そのすべてが、ただ愛しくて、大切なのだ。独占したいなんて、叶わぬ夢を抱くくらいに。
「――、愛してる」
 名前を呼んで、こんな時くらいにしか素直に言えない言葉を告げて、もう一度そっと口づけた。
 中に埋め込んだ熱を、ぎりぎりまで引き抜いて、また突き入れる。何度も何度も揺すぶってやれば、包み込む内壁が誘うように絡みつく。
「あ、あ……」
 浅いところを攻め立てて、今度は奥をぐるりと抉って、緩急つけて攻め立てるくらいの余裕はまだ残っていた。
 まわされた腕に力がこもる。そのわずかな痛みさえも、熱を上げた身体には心地よく響いた。
 互いの呼吸と、マスターの甘い声、滴る汗と、下肢から響く水音と。何もかも、この時間を煽り立てる材料にしかならない。
 気持ちよくて、愛しくて、幸せで、愛されている、生きている、と感じられるこの瞬間。彼女が与えてくれたこの身で、自分のできうる限りを与えて、それを受け入れ応えてくれることがどんなに奇跡的なことなのか。ずっとこうしていたい、と望んだ所で叶うはずもなく、終わりはいつだってやってくる。
「はぁ、っ、あ……タバティ、エール、っ」
 途切れがちなマスターの声。繋がる箇所が強く締め付けられ、追い上げられるのを唇を噛んでやり過ごす。
 せめて最後は。
「……一緒に」
 小さく告げた言葉は、届いたのか分からない。
 ただ彼女の奥深くまで穿って、最奥に触れて、高く上がる悲鳴じみた声を聞いて。
 強く収斂する内に誘われるように、熱を放つ。自分の想いごと、注ぐように。
 昇り詰めて、落ちる瞬間。終わっても離れがたくて、荒い呼吸を繰り返したまま、静かに唇を塞いだ。

 

 翌朝、食堂。昨夜は遅くまで起きていたというのに、結局いつもより少し遅いくらいの時間に目が覚めてしまい、まだ眠るマスターに一枚の書き置きを残してタバティエールは部屋を出てきた。
 どうせなら彼女の部屋で一緒に食事をとりたかったので、簡単なサンドイッチを作って持って行こうとしたのだ。いつもより遅いおかげで朝食の手伝いもほとんどなく、自分の作業にただ没頭する。
 そして、サンドイッチと冷たい紅茶のポットを用意して、食堂を出ようとした所でラップに会った。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう……」
 ラップの方から声をかけられたが、なんとなく気まずくて、声がほんの少し弱くなる。マスターと共に作戦のメインで動いていたのだから、休みの日くらいもっと遅くまで休んでいてもいいだろうに。
「早いな」
「習慣ですかね。それに、私が遅く帰ろうがまわりには関係がないので」
 うんざりとため息をつく彼は、きっと陛下か双子にでも起こされたのだろう。
 ラップはちらりとタバティエールの抱えているものを見て、それから少しだけ口元をゆるめた。
「その様子では、彼女は素直になれたようですね」
「……」
 なんのことか、なんて訊くのは墓穴を掘るだけだと察する。視線を逸らして曖昧に笑うと、ラップは肩をすくめた。
「他の男の惚気を聞かされる『夫』の身にもなってください」
 それが彼なりの冗談だということは、なんとなく分かった。分かりにくいが、彼との付き合いももうそれなりに長い。
 昨日の作戦で思うところは色々とあったが、彼に何一つ非があるわけではないし、公私混同せず与えられた役割を完璧にこなしただけの話だ。
 となると、余計な気を使わせてしまったことを詫びる所なのだろうか。
「……何か埋め合わせでもするべきか?」
「そうですね、そう仰るのであれば、午後にうるさい双子を黙らせるようなクレープでもお願いしましょうか」
 ラップは口元に手を当てて、ふふ、と楽しそうに笑っている。
 この手の要求はいつも通りよくあることだが、自分は最終的にはなんだかんだ良い想いをしたのだから、それくらいは甘んじて飲んでおこう。
「了解。いつものやつな」
 昼食の片づけが終わって落ち着いた頃に、いつもリクエストされるクレープを。脳内で、メモをするようにもう一度繰り返す。それから食堂に入るラップと入れ違いに、自分はマスターの部屋に戻った。
 マスターはまだ眠っていた。書き置きしていたメモは握りつぶして捨てた。机に持ってきた朝食を乗せ、ベッドに腰掛ける。
 カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、彼女の顔を照らしていた。それでも彼女はまだ目覚める気配がない。
 作戦の中心となって慣れない場に行って、彼女も疲れていただろう。それなのに。
「……ありがとう」
 目覚めるまで、その寝顔を見つめていよう。起きたら二人で朝食にしよう。それだけの些細なことができるのが、何よりも嬉しい。
 数日ぶりに迎える、心穏やかで幸せな朝だった。

 

 2020/06/21公開

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