「ねぇ、マスター。俺、キスも上手なんだけど……試してみる?」
「結構です」
 ウインクと共に軽い調子で告げられた言葉に、私は間髪入れずにきっぱりと返した。
 眉を顰めたまま彼の整った顔を見上げれば、ホールさんは、残念、と思ってもいなさそうなことを言ってくる。
「その気になったらいつでも、あまーいキスをしてあげるよ」
 冗談にしてもタチが悪い、この男。街の女の子達にも、この調子で口説いてまわっているのかと思うとめまいがする。
 これがただのナンパな男なら、無視していれば終わる話なのだが。如何せん、彼の元々持ち合わせているスター性というのか、人を惹きつける力というのか、惑わされてみたくなってしまうからいけない。きっと街の女の子たちもそうなんだろう。
 私は彼ら貴銃士たちのマスターという立場上、そんなわけにはいかないけれど。
 仕事仲間には手を出さないんじゃなかったのか、と言い返してやりたくもなったが、何をいっても最終的には言いくるめられそうなのでやめた。
「……大体、キスに甘いもなにも」
 味なんてしないだろうに。人の味? あぁでも、煙草の味とかは、聞いたことがある。
 ――なんて。キスどころか、恋愛自体縁遠い自分には、未知の世界すぎてピンとこない。
 ホールさんはしばし私のことを見つめていたが、突然笑い出した。
「マスター、おもしろいこと言うね」
 そう言われても、笑わせるようなことを言った覚えはない。
「甘くとろけるようなキス、マスターは味わったことない?」
 自らの唇に触れ、ホールさんは婉然と笑う。少しだけ、敵前で見せる顔にも似ていた。
「いけませんか!?」
 思わず声を荒らげてしまう。生まれてから今まで、本当に、恋愛なんて縁がなかったのだ。それを笑いたいなら笑えばいい。
 ……我ながら可愛げがないとは思うけれど、だって、好きなひとができたと思ったら、すぐに距離をおかれて、かと思えば、こうして戯れにからかわれて。
 どうすればいいというの。
 視界がぼやけ、ぽろりと一つ、滴になってこぼれ落ちた。
「知りません、キスなんてしたこともないです! なので、上手いとか下手とか私には分かりません、だから」
 これ以上、情けない顔を見られたくなくて、私は俯いた。
「だから、放っておいてください」
 きっと呆れただろう、それでもいい。でも、お願いだから、こんな風にからかわないでほしかった。
「マスター、ごめん。冗談が過ぎた」
 ほら、そうやって、何もなかった風にして。
 胸に広がる空虚な感覚。この人は、告白すらしていない私を、何度失恋させてくるのか。
「もういいです」
 いたたまれなくなって逃げようとした私の腕を、ホールさんは掴んで引き留める。
 身体が傾くほど強い力に引き寄せられ、そして。
 不意に感じたやわらかな感触。目の前には、髪と同じ色の伏せられた長い睫毛。それは紛れもなく、ホールさんのもので。
「なに、を」
 ゆっくりと開かれた水色の瞳が私の顔を映している。
 触れていた唇が、火がついたかのように熱い。
 今、私は、ホールさんと。理解した瞬間に心臓が壊れそうなほど音を立て始めた。なんで。なんで、こんなことに。
「俺が、したかったから」
 今度はそっと肩を掴んできて、もう一度、その綺麗な顔が近づけられる。逃げることなんてできなかった。縫い止められたかのように足が動かない。
 柔らかな唇が何度かそっと触れて、それからぬる、とあたたかい物が唇に触れた。舐められた、と理解はしたけれど感情が追いつかない。
 あまりに驚いたものだから、悲鳴をあげそうになって、でも声を出す前に開いた唇から舌を差し入れられた。
「ん、ふ……」
 少ししょっぱい。涙の味がする。
 身を引こうとするのをやんわりと押さえられて、抱きしめられて。
 一方的に施されるキスを、為すすべもなく私はただ受け入れていた。
 まるで味わうように、口の中、隅々まで好きにされて、でも触れる手は壊れ物でも扱うみたいに優しくて、頭がぼうっとする。
 こんな、恋人同士みたいな行為。知らない、こんなの。苦しい、胸がいたい。
 恋ってもっと砂糖菓子みたいに甘い、幸せなものじゃなかったのか。  
 これが恋の味だというのなら、私には持て余してしまう。
 唇を離すとホールさんは、今のはなんだったのかと思うほど、静かな凪いだ海のような表情をしていた。
「殴りたかったら、殴ってくれていい」
 そう言って目を閉じる。本当に、勝手だ、この人は。どこまでも私を振り回して。
 けれど。
 言われた通りに、彼の胸を叩く。
「だいっきらい」
 口から出たのは正反対の言葉。恋人でもない、特別なわけでもない。きっと誰にだってこんなことをしていると、分かっているのに。
 嫌じゃ、なかった。もっとしてほしかった。そう思ってしまう自分が嫌だった。
 鼓動は相変わらずうるさい。顔が、身体が、あつくてあつくてどうしようもない。顔があげられない。
 きっと何を言ったところで、私が隠したかった本心なんて、あっさり伝わっているんだろう。
 ずっとずっと、好きだった、って。
 はは、と笑う声はなんだかいろんな色を含んでいた。
「そっかぁ」
 その顔は複雑そうなのに、どこか楽しそうで、嬉しそうでもあって。それは私の願望かもしれないけれど。
「だったら、もっと」
 教えてあげる。
 耳元で、鼓膜を震わせるほど甘く落とし込まれた声。ぞく、と肌が粟立つ。
 結局、私は勝てないのだ。
 彼の輝きに魅せられた時から、ずっと。

 2019/05/19公開

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