夢ノ咲学院を卒業して、社会人となることへの漠然とした期待と不安の中にいたら、何故か急遽寮生活が始まることになったのが一月ほど前の話だ。引越作業に追われていたのも落ち着き、新しい生活にも慣れ始めていた。可愛い妹と離れるのは寂しいとか、父親と妹の二人だけの生活は大丈夫なのかとか、急に生活が豪華になってついていけるのかとか不安もあったけれど、同じアイドルをしている仲間たち、友人らと一つ屋根の下で過ごす生活は賑やかで楽しいことも多い。同室の斎宮と瀬名は部屋の片付けが終わって早々に海外に行ってしまったけれど、後輩の衣更とは協力しながら上手くやれている、と思う。
 なによりも、恋人である蓮巳もこの寮内にいるのだから、浮ついた気持ちもあった。
 最初はただのクラスメイトで、いかにも真面目な優等生っぽい彼と、ろくでもない不良の自分は絶対そりが合わないだろうと思っていたのに。紅月として活動するようになってから――いや、その少し前から関わることが増えて、良かったことも嫌なことも、本当に色々とあったけれど。気づいた時には惹かれていて、それがお互い同じ気持ちなのだと知って。立場上、表立って言えるわけではないけれど恋人という関係になった。
 学院時代の蓮巳は生徒会の方でずっと忙しそうにしていたし、何より二人とも実家で暮らしていたし、あまり恋人らしい時間もとれなかったけれど。今は一つ屋根の下で生活しているのだから、すぐに会おうと思えば会える距離だ。実際、用事があるときは数分で会えるのだから便利だった。けれどお互いの性格なのか、特に用事がないのに会いに行く、というのがなかなか切り出しにくい。偶然会うことも思ったより少なく、共通の仕事がなければ意外と顔を合わせない日もある。同じフロアで生活している神崎の方が、顔を合わせる機会が多いくらいだ。
 会いたい、とは思うけれど、だからといってそれだけの為に呼び出すのは。と、どうにも踏み切れない。蓮巳の方は事務所で企画書を作ったり、寮監の仕事をしていたりと、自分よりも忙しいだろうから。
「どうすっかな……
 鬼龍は部屋のソファに座ってぽつりと零した。今日は平日で、衣更は登校したから寮室には一人だ。自分は一日オフだから、気合いを入れて水回りまで含めた部屋の掃除をしていたのだが、一通り終わってもまだ昼前だ。このあとの予定は、これといってない。日課のトレーニングをどこかでやるくらいだ。ESビルのトレーニングルームも無料で使用できるし、衣装部屋にも自由に出入りできるから、そっちに行っても良いが。
 悩みながらスマートフォンを取りだして、スケジュールの確認をする。自分はオフだけれど、紅月の他の二人はどうだったか。
 事務所に所属するようになってから、紅月の三人は個人の仕事も含めてアプリでスケジュールを共有している。正確には、蓮巳に伝えると彼が登録してくれるのだが。自分で登録したらどうだ、と言われたこともあるけれど、どちらにしろ予定が入ればすぐ蓮巳に伝えるのだし、そうするとすぐ登録してくれるのでなんとなく任せてしまっている。
 蓮巳は午後から撮影の仕事、神崎は夜にラジオの収録とあるから今は学校だろう。
 時間があるのは自分だけらしい。いや、寮内かESのビルには誰か暇な人もいるだろうけれど、わざわざ探すほどでもない。
 やっぱりトレーニングルームにでも行くべきか、と考えるけれど、今から行くと昼食の時間が半端になる。どうせ時間があるのなら、昼飯をキッチンで作って食べてから、午後にじっくりトレーニングをした方がいいだろうか。メニューの構想も特にないが、作るものはキッチンにあるものを見て考えればいい。必要なら買い出しに行く時間もあるし。そう結論づけると、立ち上がり部屋を後にした。



 一階に降りると、共有ルームに見慣れた姿があった。ソファに掛けて本を読んでいるのは、さっきまで会いたいと思っていた相手だ。
「蓮巳の旦那」
「鬼龍か。どうした」
 声をかければ、本から顔を上げてこちらを振り返った。ふわりと嬉しそうな顔をするのが、たまらなく可愛い。
「いや、見かけたから声かけただけなんだがよ。邪魔したか?」
「そんなことはない。出かけるまでの暇つぶしだからな」
「この後仕事だったよな。いつ出るんだ?」
「あと三十分ほどだな」
 三十分。長いような、短いような。時間があるのなら一緒に昼飯でもと思ったけれど、そこまでの時間はなさそうだ。けれど、せっかく数日ぶりに顔が見られたのだから、もう少し一緒にいたい、と思ってしまう。
……なあ、それならちっと俺の部屋まで来てくれねぇか」
「うん? かまわないぞ」
 蓮巳は開かれていた本のページにしおりを挟んで、パタンと閉じる。用件も何も言わないのに、疑うことなくついてくるものだからほんの少し、罪悪感みたいなものが湧いた。別に騙しているわけでもないのだが。
 部屋の鍵を開けて中に招き入れると、数日ぶりに会った恋人の体を抱きしめる。
「何か用があるんじゃなかったのか」
 呆れたような、それでいて少しくすぐったそうな声。仕方ないな、とでも言うような笑み。
「いや、なんか、全然一緒に居られなかったから」
 寂しかった、と口にするのは恥ずかしいので曖昧に濁すと、蓮巳が笑うのが分かった。
「そうだな。俺も、会いたかった」
 そう言って背中に腕をまわし、肩に顔を埋めてくる。愛しい気持ちが強くなり、ほんの少し鼓動が速くなった。恋人の温もりに心が満たされる。頬を撫でると、くすぐったそうに目を細めた。キスをしてそれからもう一度抱きしめると、素直に甘えてくるからたまらなくなる。
「もう少し時間があったら、昼飯でも一緒に食いたかったけどな」
「それはまたの機会にだな」
 このまま玄関口で突っ立っているのもなんだし、手を引いてベッドの方へと移動する。
「っ、この後仕事だから、あまり」
「わかってるって。でもソファよりこっちのが良いだろ」
 別に何かするつもりはない。ただくっついてるのに都合がいいからだ。
 ベッドに転がって誘うように腕を伸ばせば、躊躇いながらも腕の中に収まってきた。いや、蓮巳は細いけど結構身長があるから、全然収まるって感じでもないのだが。
 髪を梳いて、額にキスして。そんなぬるいじゃれ合い。できることならもっとキスとか、したいけれど。あんまりしてると色々と抑えられなくなりそうだったから。
 触れ合う合間に、他愛ない会話をする。何か大きなことがあれば大体は直接、もしくは通話して伝えているけれど、それほどでもない些細な近況なんかを、お互いに共有する。
 ただそれだけで、寂しかった気持ちが薄らいでいく、満たされていく。充電されているみたいだった。
 と、その時、電子音が鳴り響いた。蓮巳のスマートフォンからだ。
「時間、だ」
 蓮巳がアラームを止めて、そっと腕から離れる。今まで触れていた温もりが消えると、名残惜しいというか、離れがたいというか。蓮巳のことだから早めに仕事場に着くようにしてるんだろうけれど、これ以上は引き留めるべきじゃないだろう。
 自分も起き上がって、少し乱れた服と髪を整えてやった。されるがまま大人しくしていた蓮巳が、ほんの少し赤い顔のままで言ってくる。
「夜はどこか、晩飯でも食べにいかないか。終わったら、連絡するから」
「ん、わかった。仕事、頑張れよ」
「ああ。行ってくる」
 ほんの少し彷徨っていた視線が、じっと俺を見据えてきた。まだ何かあるのか、と首を傾げると、いつもはっきりと物事を言う蓮巳にしては珍しく躊躇っている。じっと反応を待っていると、やがて意を決したように、名前を呼んできた。
……、鬼龍」
 それから首に腕をまわして、蓮巳の方から口づけられた。一瞬触れて離れる、柔らかな感触。
 行ってきますのキス、みたいな。いや、キスくらいは何度もしてるんだけど、それでも、こんなこと、こんないかにも恋人同士みたいなことしてくるの、今までなかったのに。
「また後で、な」
 真っ赤になった顔のまま、蓮巳は逃げるように部屋を出て行った。自分からしておいてあんなに恥ずかしがって。そういうところが、本当に。
「なんつーか、照れるな、これ……
 誰が見ているというわけでもないけれど、ニヤけそうになる口元を隠して、一人呟いた。 きっと同じくらい、自分の顔も赤くなっているだろうことは、鏡を見るまでもなくわかっていた。

 

 2024/08/11公開