恋愛というものは物語の題材の定番だ。温かくて美しく、優しい感情。世界を煌めかせるような輝かしいもの。或いは身を焦がすほど激しいもの。嫉妬や執着や憎悪などの闇を生み出すもの。誰かを強く想うこと、その人のことで自分の思考がいっぱいになること。誰かと手を取って生きる幸福に淡い憧憬もありながら、自分を見失う程の強烈な感情を遠ざけたい想いもあった。
 綺麗なものを得られるとは限らない。得られたとて不変のものでもない。得られなければ行き場のない想いは自らを蝕むのだろう。
 幼い頃には淡い感情を抱いたこともあったけれど、この大事な時期にそんな不確かなものに振り回されたくもなかった。大体、俺にはそんな暇はないのだと思っていたのに。
 恋とは、するものではなく落ちるものなのだと、どこかで見た言葉の意味を痛感していた。
 一度自覚してしまってからは、想いは増す一方で。抱えきれない程に膨れ上がった感情は、夢までも浸食していった。
 寝ても覚めても、俺はおまえのことばかり考えているのか。
 想っている間は幸せで、辛かった。
 都合の良い幻想を、見ていたかった。叶わぬ願いだと、わかっていた。
 そうして感情を持て余しているくらいならば、いっそ。そんな夢が叶うことはありえないのだと、とどめを刺してほしかったのだ。
 だから練習後に帰宅する神崎を見送ったあと、他に誰も居ないレッスン室で俺は鬼龍を呼び止めた。そうして、ずっと抱えていた想いを伝えることにした。
「好きなんだ」
 緊張はしていた。それでも、口にすることに躊躇いはなかった。
「ずっと前から……鬼龍のことが、好き、だった」
 言ってしまえば、その言葉はストンと腑に落ちた。こうして口にするのが最初で最後だとしても。俺にとっては何より大事なものだったんだ、きっと。それでも鬼龍の顔をみる勇気はなかった。振られるのは想定していても、嫌な顔をされていたら傷付きはする。
「好きって、恋愛的な意味でか」
「あぁ、そうだ」
「…………」
 しばしの沈黙。それはそうだろう、どう考えても反応に困る。同性で、同じユニットの仲間で、これからも付き合っていくことになる相手にこんなことを告げられては。
 きっと鬼龍は優しいから、どう答えれば俺を傷つけないか考えているのだろう。
 鬼龍のこうした優しさが好きだったが、半端に情けをかけられるのなら、ばっさり切り捨ててくれた方が諦めもつくのにと、勝手なことを思ってしまう。
 やがて鬼龍が、ふと、笑うのがわかった。
「そっか。俺も好きだよ、蓮巳のこと」
「この流れでそんな言い方をすると、勘違いされるぞ」
「勘違いじゃねぇっつの。なんだよもう」
 不意に引き寄せられ、背中に腕をまわされる。抱きしめられているのだと理解するのに、数十秒を要した。
「で、旦那はどうしたいんだよ?」
「なにが」
 困惑を通り越して思考が止まる。腕にこもる力と、耳元で聞こえる声のくすぐったさに、鼓動が速くなっていた。
「俺たち両思いってやつなら、付き合うってことでいいのか」
 両思い。付き合う。鬼龍の口から放たれた言葉を、頭が上手く処理してくれない。
 それは俺にとって叶わないはずの夢で、現実になる可能性なんて……。
「そんなの、考えたこともなかった」
「だったらこれから一緒に考えようぜ。ま、肩書きが一つくらい増えたって、俺たちは俺たちだしな」
 それは何か変わるのか。今までと変わらないつもりなのか。
「しかし、付き合うことになっても、堂々とまわりに言えるわけでもねぇしなぁ」
 それはそうだ。アイドルという立場を考えれば、変な疑いを持たれないよう今まで通りに振る舞うべきだろう。恋愛が禁止されているわけではないけれど、アイドルとしてのイメージも校内での立場もある。
「……でもさ」
 鬼龍の手が頬に触れ、上向かされる。指先が唇をなぞり、それから今度は唇に柔らかな感触があった。
「これからは、こういうことも、していいんだな」
 一瞬だけ触れて、離れて。悪戯っぽく笑う鬼龍の顔を呆然と見つめる。なんだこれ。急な展開に思考が追いつかない。今、なに。なにが。
 キス、した? 俺、今、鬼龍と……。
「なんなんだ、貴様は」
「って、泣くのかよ。なんでだよ。泣くなって。目腫れるぞ」
「っ、だれの、せいだと」
「あーあー、悪かったよ」
 何が悪いのかもわかってないくせに。いや、別に鬼龍は悪くないんだ。俺がただ、現実を受け止めきれなくて、ぐちゃぐちゃになった感情がこうして溢れただけ。
 結局泣き止むまで抱きしめられて、優しくなだめられて。それから家に帰るまでの記憶がない。いや、帰ってからもあまり覚えていない。地に足が着かないようなふわふわした心地。まだ信じられない。だって叶うはずないって思ってたのに。本当に? 
 布団に入ったあとも、なかなか寝付けなかった。
「……」
 自らの唇に触れる。さっき触れた熱が、まだ残っているようで落ち着かない。
 俺は、本当に、鬼龍と……? 夢ではないのか。朝起きたら全部、なかったことになるんじゃないのか。
 鼓動がまた騒ぎ出す。嬉しいはずなのに、まだ実感がない。朝、目覚めても幸せなこの日の続きでありますように、と柄にもなく願って眠りに就いた。



 翌日はいつも通り登校して、授業を受けて、昼休みは生徒会室に籠もり、午後もまた授業を受ける。隣のクラスとはいえ、教室が違うと特に用事もなければ会わないことも多い。体育や実習などの移動教室がある日は尚更だ。今日も放課後には紅月のユニットのレッスンが入っているが、それまで鬼龍と顔を合わせることもなかった。今までならそれを寂しく思っていたけれど、今日に限ってはそれでよかったかもしれない、とも思った。だって、今まで通り普通に過ごせる自信もなかったから。人の多い教室で不審な行動をとって、変に勘ぐられたくもない。
 なんとか無事に一日を終えて、レッスン室に向かう。二人はまだ来ていなかった。
 ジャージに着替えて曲のセットなどレッスンの準備をしていると、鬼龍が来た。
「よう、お疲れ」
 あまりにいつもと変わらない調子で言うものだから、昨日のできごとの現実味が少し薄れたような気がした。
 鬼龍は扉を閉めて、俺の隣に荷物を置いた。
「やっぱりこうして集まってレッスンできるのはいいよな。神崎はちぃと遅くなるみてぇだけどよ」
 神崎とはここに来る前に会ったらしい。海洋生物部の部室で、餌やりをしてから来るとのことだった。
「……蓮巳」
 不意に名を呼ばれると、肩を引き寄せられた。鬼龍の顔がゆっくりと近づいてくる。触れてしまいそうなほど近くなって、思わず目を閉じる。ふ、と笑う声がして、それからまた、唇に……。
「っ、なにを」
「いいじゃねぇか。付き合ってんだろ、俺ら」
「いい……わけない! レッスン室だぞ、神崎も来るのに」
「だからしばらく来ねぇんだろ。そんなに言うなら今日はこれで終わりにするけどよ」
 今日は、って。明日からもまだあるのか。
 というか、夢じゃ、なかったのか。昨日のこと、今も、全部。
「はは、顔真っ赤だぜ」
「うるさい、貴様のせいだろうが」
「そうだなぁ、俺のせいだ」
 あんまりにも柔らかな笑みを向けてくるものだから、心臓だけ煩く騒ぎっぱなしだった。

 それからまた翌日。
 今度は放課後、生徒会室に一人籠もっていた俺の所に鬼龍が立ち寄っていた。手は離せないが、ほんの少しだけ話をする。
 俺は書類を捌きながら、時折隣に立つ鬼龍の方に視線を向けていた。
 今日は鬼龍の方は部活もないらしく、帰って家のことをするらしいのだが。
「まだ帰りたくねぇなぁ」
「妹さんが待っているんだろう」
「んー、妹が帰るまでにはもう少し時間あるんだけどよ。買い物して晩飯作らねぇとだしな」
「そうか」
 多忙なお父様と幼い妹さんの為に家の事を担う鬼龍の大変さは、自分には想像の及ばないものだけれど。負担を減らしてやれたらよかったのかもしれないが、俺には何をしてやれるでもないし、まして他人様の家のことに介入できるわけもない。不満があるなら話を聞いてやるくらいはできるが、そういうわけでもないようだし。
 そんなことを考えていると、不意に背後から重みを感じ、書いていた文字がブレた。
 鬼龍に、後ろから抱きしめられている。
「き、さま、いきなりそういう……」
「……旦那と離れたくねぇなって」
「度し難い」
 文字を消して書き直そうとして、やめた。抱きしめられる体温が心地よかったから。俺も、もう少し傍にいたかったから。
 時間にして、ほんの数分程度だろう。何を言うでもなく、抱きしめられたまま心地よい温もりに身を預ける。
 やがて腕の力が緩んで、ちゅ、と音を立てて頬に口づけられた。
「これで頑張れそうな気がするぜ。ありがとな」
「ああ、また明日」
「旦那も根詰めすぎんなよ」
「わかっている」
 まだ名残惜しそうな顔をして、それでも鬼龍は手を振って生徒会室を後にした。
 頑張れる気がする、か。それは、俺も一緒なのかもしれない。まずはこの鬼龍のせいでブレた文字を書き直すところからだが。ほんの少し手間が増えたのも気にならなくなるくらい、抱きしめてくれたことが嬉しくて。鬼龍も自分のすべきことを頑張っているのだと思えば、残りの仕事もやりきれる気がした。
 それからも毎日毎日……二人きりになる度に、鬼龍は愛情を伝えてくれた。言葉にしたり、抱きしめたり、キスしたりして。
 なんだか、思ってたよりずっと甘やかされている。
 幸せすぎて怖いくらい。

 そんな日がしばらく続いた頃。
「思ってたのと違う」
 誰も居ないからと呼ばれた鬼龍の家で。鬼龍の部屋で膝に抱き上げられて、思わず呟く。
 付き合うとは、恋人とはこういうものなのか。俺が知らないだけなのか? いや、それにしてもこいつは俺を甘やかしすぎだろう。鬼龍はもう少し硬派なタイプかと思っていたがと考え、いや妹さんを溺愛しているのだからそういう部分は元々あったのかもしれん、と思い直す。いざ自分がやられると恥ずかしくてたまらないが。小さい頃、兄に構い倒されたのとは全然違う。
「嫌なのかよ?」
「そうじゃない、が。……心臓がもたん」
 好きだ、って言ってくれるときの柔らかな声。キスする時にそっと頬に触れる大きな手。抱きしめられる時に感じる逞しい胸。毎日、ドキドキしている。何度でも恋するみたいに。
「これ以上好きになったらどうしてくれるんだ」
「そいつは、ちゃんと責任とってやらねぇとな」
 そんなことを言いながら、今日もまたキスしてくる。
「……貴様ばっかりずるい、俺にもさせろ」
「旦那からしてくれんの?」
 嬉しそうに言うな、こら。でも、やられっぱなしも癪だしな。少しくらい反撃してやりたい気持ちもあった。
 告白したあの日から鬼龍が何度もしてくれたように。鬼龍の頬に触れて、目を閉じて、顔を近づけて。ほんの少し唇に触れた、柔らかな感覚。
「う、思った以上に恥ずかしいんだが、貴様よく平然とできるな……」
 慣れてるのか? まあ、鬼龍みたいないい男が好かれないわけないだろうが。……なんて、知らない過去にまで嫉妬しそうになってしまう。
「いや、恥ずかしいっちゃ恥ずかしいけど。でもさ。てめぇはこれくらいしないと信じねぇだろ」
 そう言って、また鬼龍の方からキスしてくる。俺がしたよりもう少し長く触れてから、離れていった。
「なんてな。俺も浮かれてんのかもな」
 腕の中に閉じ込めるように、強く抱きしめてくる。何度目かもう分からなくなったけど、それでもまだそわそわと落ち着かなくて。毎日毎日、鬼龍と一緒にいると心臓も煩く鳴りっぱなしだ。このまま壊れてしまうんじゃないかと思うくらいに。
「こんなことできると思ってなかったし。夢じゃないんだな、って。嬉しいんだよ」
 おまえも、同じなのか。一方的な感情だと思っていたのに、同じだったなんて思いもしなかったのに。
「ま、少しずつ慣れてってくれや」
「慣れるほど、ずっと一緒に居てくれるのか」
「なんだよ、どこまでも一緒にいるんだろ?」
 先のことは分からないけど、でもこれ以上好きになれる人なんて、いないんじゃないかって思う。ずっと隣にいたい。仲間として、相棒としてだけじゃなくて。
「……そうだな」
 そうなれたらいいな、と強く願う。いつか、これが俺たちにとっての当たり前になって、この瞬間を二人で懐かしむこともあるのだろうか。俺はこいつを手放すつもりはないけれど、人の心は移ろうものだし変わるものもある。この想いだってきっと形を変えていく。でも、変わらないでいて欲しいものもある。
「まだしたいこと、色々あるんだよ、俺も」
「そうか。色々、か」
「そう、色々。……もう少してめぇが俺に慣れてくれたらな?」
 悪戯っぽく笑う、その瞳だけ熱が籠もっていて。それが、どういう意味なのか……とは、まだ聞けなかった。
 告白する前には考えられもしなかったけれど、今なら分かる気がするから。
 もっと傍に居たい。もっと深く触れたい。未熟な俺は欲ばかり尽きなくて。それでも、鬼龍も同じ気持ちでいてくれるなら、いつかそれだって叶うのだろう。
「善処しよう……」
 するりと指が絡められる。恋人がする手の繋ぎ方。これも『色々』の中の一つだろうか。……緊張しながらも鬼龍の手を握り返せば、満足そうに笑っていた。
 その笑顔にまた、好きの感情が溢れだして、心臓が騒いで、顔が熱くなるくらいに熱を巡らせていく。こんな調子で、慣れる日なんて来るのだろうか。俺が鬼龍にドキドキさせられるのは、まだしばらく続く気がする。

 2025/05/05公開