日々忙しく働きまわっているというのは、アイドルという職業を考えればありがたいことではある。だが、恋人である鬼龍と一緒に過ごせる時間というのも、ここ最近はめっきり減ってしまっていた。いや、同じユニットとしての仕事では当然一緒にいることも多いけれど、それ以外のプライベートの時間がなかなか合わせられないのだ。
 それぞれ個人の仕事もあるし、鬼龍は忙しいなかで時間を作って実家にも顔を出している。蓮巳は特に用事でもなければあまり実家に帰ることはないが――定期的に連絡はしているし、季節ごとに呼ばれるけれど――大人ばかりの蓮巳の実家と違って、多忙な父親と小学生の妹が二人で暮らしている実家は、手助けも必要だろう。
 そして今夜は久しぶりに、二人とも寮にいた。明日はお互い朝から別の仕事だけれど、夕食の時間から寝るまでの数時間だけでも、一緒に過ごしたくて、鬼龍の寮室を訪れていた。
 過ごせる時間が短い時は、大体は離れていた時間の話をするか、一緒にテレビなどを見るか、それぞれ読書や裁縫など自由に好きなことをしているか、だ。好きな人の傍にいるだけで安心するし、活力を貰える。だから今日も、鬼龍の部屋で夕食を食べながら話をして、その後は各々好きなことをしていた。蓮巳は鬼龍のベッドに座って持ち込んだ漫画の続きを読んでいたし、鬼龍はソファに座って刺繍に手をつけていた。
 けれど鬼龍が針を持っていたのはほんの短時間だけで、あとはずっとスマートフォンと戯れている。何人かのグループでメッセージのやりとりをしているのだろう。その相手は、ESのアイドルでも、家族でもなかった。
「……」
 相手が誰なのかは、蓮巳も分かっている。鬼龍が個人の仕事で共演した人たちだ。
 明日、鬼龍は女性誌の撮影が入っている。どうやら筋肉男子特集などという企画らしく、鬼龍以外にも何人か若手の男性が呼ばれているようだった。鬼龍以外はボーイズグループのメンバーが二人、俳優が一人。写真の撮影と、同じ芸能人だけれど種類の違う仕事をしている人たちによる対談だ。
 事前の質問とその回答は、蓮巳も見せてもらった。特に心配はしていなかったが、アイドルとしての話、ユニットの話など確認してほしいと鬼龍の方から持ってきたのだ。特に問題はなかったのでそのまま返したが。
 そんなわけで、以前共演して仲良くなった人たちと仕事で再び集まることになったので、終わったら食事でも行こうと、ここ数日盛り上がっていたらしい。
 鬼龍はこうして、外で人と仲良くなってくることが多い。連絡先まで交換したり、そうしょっちゅうやりとりするほどの相手は少ないようだが、どうもこの筋肉自慢男子たちは、何か通じるものがあったのだろうか。情報交換をしたり、一緒の仕事のときは食事に行ったり、相手の出演作品やイベントを見に行ったり、と仲良くしているようだった。
 蓮巳も名前を言われれば分かる程度の相手だ。とはいえ、顔を名前を知っているというレベルのもので、知り合いというわけではない。共演したことのある人もいるが、挨拶程度の言葉を交わしたくらいの、遠い距離の人たち。
 鬼龍はずっと楽しそうにしている。それがなんだか、面白くない。
 針仕事をしているとか、勉強をしているような時であれば、蓮巳だってこんなことは思わないのだけれど。
 いつまでスマホをいじってるんだ。俺と居るよりも明日会う奴らの方がいいのか。
 いつでも会える距離の蓮巳と違って、外で知り合ったなかなか会えない相手との予定の方が優先されるだろうことは理解しているつもりだ。外で交流を広げられるのも鬼龍にとっては良いことだ、とも。だから、止めたりはしないけれど。
 でも。今、一緒にいるのは俺なのに。
「……」
 子供染みた嫉妬。分かってる。それでも、傍にいるのに相手にして貰えないのは、寂しい。いつまでも終わらなさそうなので、蓮巳は強硬手段に出ることにした。こっちを見てくれないのなら、いっそ、無理矢理にでも視界に入り込んでしまえばいい、と。
 蓮巳は強引に鬼龍の膝の上に割り込む。それから鬼龍に背中を向けて、そのまま居座ってやった。スマートフォンを操作していた鬼龍の手が止まる。そして。
「……ふはっ」
 笑いが堪えきれなくなったのか、肩を震わせている。ついには声を立てて笑い始めた。
「おまえ、そんな、もうちょっとなんか、あるだろ、やり方」
 ようやくこっちを見てくれたのに、今度は自分が鬼龍の顔を見られない。何をやっているんだ、と自分でも思うけれど。だって。おまえが。
「っ、もういい、帰る」
「悪かったって。もう連絡は終わったよ」
 立ち上がろうとするその前に、背後から抱きしめられて、頬をすり寄せられる。
「ええい、離せ!」
「おいおい暴れんなよ。この辺、ものが多いんだから怪我するぜ」
 確かにテーブルの上にはマグカップなども乗っているし、暴れたら危ないだろうけれど。鬼龍の腕と足でがっちり押さえられてしまっては、ほぼ身動きなどできないのだが。
「くそ、貴様の力はどうなっているんだ。筋肉馬鹿め……!」
「せっかく来てくれたのにそう簡単に逃がすわけねぇだろ」
 全力でもがいているはずなのに、抜け出せない。鬼龍は顔色一つ変えず、余裕の表情をしている。それがまた腹立たしい。
 テーブルに置かれたスマートフォンを見つめていると、鬼龍はそれを指差した。
「気になるんなら見ても構わねぇぜ? 見られて困るもんはねぇしな」
「必要ない。信頼してないわけではないんだ」
「じゃあ寂しくて拗ねてただけか」
「うるさい」
 片腕で蓮巳を抱きかかえたまま、もう片方の手でわしわしと頭を撫で回される。髪をぐちゃぐちゃにされても、鬼龍の腕は振りほどけなかった。片腕だけで軽々と捕まえられていると、改めて力の差を痛感して愕然とする。
「はすみ」
「……ッ!」
 子供に言い聞かせるみたいな言い方で優しく名前を呼んだかと思えば、ちゅ、と頬に口づけられた。二度、三度と頬に口づけて、それから左手が腰を撫でてくる。
「あ、おい、こら……」
 思わず振り返ると、鬼龍は目を細めて笑った。
「やっとこっち見た」
 言うが早いか、今度は唇を塞がれる。優しく触れてから、すぐに離れた。
「貴様、こんなことで機嫌を取ろうなどと」
「思っちゃいねぇけどよ」
 そう言いながら鬼龍は、蓮巳を膝の上に抱き上げ直した。今、一瞬浮いた気がするのだが。膝の上に横抱きにされて、顔が近づく。なんだか気恥ずかしくて、鬼龍の肩に顔を預けた。
「放っといちまったのは悪かったけど、旦那だって本に夢中なことあるだろ」
「それとこれとは別だろう」
「今いいところだから後にしろって言われたの、一度や二度じゃねぇけどな」
 そんな覚えはなかったのだが、無意識に出ていたのだろうか。気が緩んでいるというか、鬼龍に甘えすぎているのかもしれない、と反省しつつ。鬼龍はそれでも今まで何も言わなかったのだろうに、自分ばかりが我が侭を言っているみたいで、急に申し訳ない気持ちになってきた。
「……それは、すまなかった」
「別にいいけどよ。なんだかんだ、最後は俺に付き合ってくれるし」
 そう言いながら、今度は額にキスをしてくる。
「で、旦那はどうしてほしいんだ?」
「どう、ということはないが」
 相手をしてほしかっただけで、具体的に何かを望んでいたわけではない。というか正直、何も考えていなかったのだが。
 ぎゅっと強く抱きしめられて、そわそわと落ち着かない心地になる。甘やかされている、と思う。鬼龍はいつだって、こうして蓮巳が望むようにしてくれる。それが当たり前になってしまって、与えられないと寂しくて。離れたく、なくて。
 不意に鬼龍はテーブルの上にあった箱に手を伸ばした。抱き上げたままやるものだから体が傾いて、蓮巳は慌てて鬼龍の首にしがみつく羽目になる。
 そして鬼龍は何事もなかったかのように、蓮巳の口元に何か押しつけてきた。
「結構美味いぜ」
 チョコレートだ。スーパーやコンビニなどに売っているものとは違うから、どこかで貰ってきたのだろうか。さっき、菓子食うかと聞かれた気はしたけれど、詳細を聞く前に要らんと断ってしまったから、中身まで知らなかった。
 断ったのは漫画に夢中になっていたからではなくて、夕飯を食べた後で腹がいっぱいだっただけだが。
 薄く唇を開けば、そのまま口の中に押し込まれた。ミルク感のある甘さが口の中に広がる。嫌いではないけれど、結構甘い。
 鬼龍はじっと蓮巳のことを見つめている。
「あまりじろじろ見るな」
 なんなんだ、まったく。人が食べているところを注視しているのは不躾じゃないのか。鬼龍じゃなければ説教しているところだ。
「機嫌直ったか?」
 冗談なのだろうが、そんな甘い物一つで簡単に機嫌が直るわけないだろう。まったく。
 鬼龍の指先が、蓮巳の頬を撫でていく。それから顎を持ち上げて、唇を塞がれた。角度を変えて何度か口づけられ、それから唇にやわく歯を立てられる。
「んっ……」
 痛いわけではなかったけれど、思わず小さな声が漏れた。そのまま、舌が入り込んでくる。
「……!」
 反射的に、しがみつく腕に力がこもった。それを鬼龍は、もっとねだっているように受け取ったのだろう。蓮巳の背を掻き抱くようにして、深く口づけてくる。
 ちがう、そんなつもりでは。そうじゃなくて。逃れようとするには不安定な体勢で、腕を離すこともできず、ただ口づけを受け入れる。
 困惑する蓮巳の口内をたっぷり味わってから、鬼龍はようやく体を起こした。
「ははっ、甘い」
「それはそうだろう……」
 なんか、色々と、どうなんだ。恥ずかしい奴……。
 蓮巳は深いため息をついた。
「まだ足りねぇ?」
「違う、そうじゃない」
 蓮巳は慌てて首を振った。正直、もっとしてほしい気持ちはあるけれど、それは駄目だ。
「……大体、そんなつもりで来ていないんだ」
 離れていた後に二人きりになると、どうにも、求めたくなってしまうから。でも、今日はそのタイミングじゃないから、歯止めを掛ける意味も込めて、そうした準備はしていない。
「まあ流石に、な。旦那も疲れてるだろうし、明日も早いし」
「そもそも今日は一人ではないだろうが」
「そうだけどよ」
 海外にいる二人がいないのはいつものことだけれど、衣更はまだ仕事で外に出ているだけで、この後普通にこの部屋に帰ってくる。だから、その気ならば寮監室という手段もあった中、敢えてそうしなかったのに、煽られて中途半端に熱を抱えたくない。
「だからこれ以上は、困る。……我慢できなくなりそうだから」
 キスも、その先も。鬼龍のことが好きで、欲しくてたまらなくなるから。
 もう、充分だろう。そう思って離れようとしたけれど、それはできなかった。
「なればいいのに」
 ぎゅっと抱きしめて、囁かれる。
 それがほんの少し、違和感を伴って響く。不意に零れ落ちたのは、本心なのだろうか。
 鬼龍も、心の内にどろどろした欲みたいなものを抱えているのだろうか。理屈とか建前とか、そんなものをぶち壊してしまいたいくらいの、本能にも似た衝動を。
「好きだ。ずっとこうしてたい。俺だってそう思ってるよ」
「なんだ、突然」
 いきなり空気を変えてくるな。今日はどうしたんだ。
「離れたくねぇ」
 耳から、首。それから手を取られて、手のひらにまで唇で触れられる。
「鬼龍、っ……」
 嫌じゃない。もっとしてほしい。でも、これ以上は。本当に駄目にされるから。
「……っ、離せ、やっぱり帰るっ」
「そいつは聞けねぇな」
「衣更が帰ってきたらどうするんだ!」
「仕事長引いてて終電近くなりそうって連絡あったぜ」
 明日会うメンバーとずっとやりとりしていたのかと思ったら、合間に衣更とも連絡をしていたとは。衣更は明日の鬼龍の仕事が早いのを知っていて、寝ている時間に帰るかもしれないからと気遣って連絡してきたのだろう。というのは容易に想像がついたけれど。
「だからって、いいわけないだろう!」
「まだ寝る予定の時間まで一時間以上はあるのに? 本当に帰るのかよ」
「……そ、れは」
 けれど蓮巳が何かを言う前に、鬼龍は何事もなかったかのように笑い飛ばした。
「なぁんて、な」
 不穏な空気は鳴りを潜めて、いつもの調子に戻っている。あまり考えていると自分も深みにはまりそうだったから、気のせいだったのだろうということにした。
「キスが駄目なら撫でてやろうか。よーしよし」
「おいこら」
「旦那は可愛いなー」
 頬擦りしてきたかと思えば、また頬にキスをされる。まったく、何度目だ。これはキス扱いじゃないのか。唇じゃなければセーフだと思っているのか。なんなんだ。
「もう勘弁してくれ。流石に恥ずかしくなってきた」
「ははっ、逃げたかったら逃げてみろよ」
 何度目かの抵抗も意味はなく。恋人というよりはペットにでもなったかのように愛でられている。そうして寝る予定時刻の直前まで、鬼龍の腕の中に閉じ込められていたのだった。

 2025/03/12公開