とあるIT企業に就職してから、一月ほど経った頃。新人研修を終え、ようやく配属先が決定した日のことだった。
「どこだった?」
 学生時代からの先輩に訊ねられ、笑顔で答えた。
「第一営業部です!」
 志望していた営業部に入れると浮かれていた自分に、先輩は少しだけ困ったような顔で告げてきた。
「あそこかぁー。はりきってる後輩に水を差すのも悪いんだけど、一つだけ」
 そう言って先輩が耳打ちしてきたのは、一つの忠告だった。
『リーチ兄弟には気をつけて』と。
「兄弟……えっ、怖い人たちなんですか?」
 兄弟揃って同じ企業に入るくらいなら、仲は良さそうに思えるけれど。気をつけて、とは穏やかじゃない。どういう意味だろう。
「いや、彼らがどう、というか……行けばわかる」
 曖昧な先輩の返事に、あれこれと想像を巡らせる。けれど、名前を聞いただけで想像がつくわけでもなかった。
 その時は、なるようになる! とそれ以上深く考えるのをやめたけれど。
 新生活に対する期待と不安が半々に入り交じった新しい仕事。そこで自分は、先輩の忠告の意味をよく知ることになるのだった。

 

「おはようございます!」
 勤務初日、渡された配置図を見ながら指定された営業部に向かうと、珈琲を片手にした背の高い男性が一人いた。
「あぁ、おはようございます」
 その人は振り返り、珈琲を置いてこちらに近づいてくる。
(で、でかい……)
 初対面の印象は、壁だった。そう言うと失礼なのだが、長身の、スーツ越しでも分かるしなやかな筋肉のついた男性で、顔立ちは整っているけれど目の前に立たれた時の威圧感が凄かった。
 別に怖い顔をされたわけではない。それでも、頭一つ分以上違うし、自動販売機よりも大きい。
「今日から配属の新人さんですね。デスクはこちらです」
「あ、あ、ありがとうございます」
 すぐに笑顔で案内してくれたのだが、驚き跳ね上がった心臓は、しばらく落ち着かなかった。
 これが先輩の言っていた兄弟の一人、第一営業部所属ジェイド・リーチ先輩だった。
 そしてもう一人も、すぐに会うことになった。
「ねージェイドぉ、これなんだけど」
 業務中にジェイド先輩を訪ねてきた、瓜二つの男性。目元が違うけれど、他はよく似ている。
 思わずじっと見つめていたら、二人同時に振り返られた。
「なぁに? 見たことないけど、新人ちゃん?」
「すみません。そっくりだったので驚いて」
「僕たちは双子ですので」
「ウェブデザイン部のフロイドでーす」
 兄弟というのは聞いていたけど、双子、というのは知らなかった。それならばここまで似ているのも納得だ。
 ウェブデザイン部とは付き合うことが多くなる部署なので、その後しっかりと挨拶はした。
 これが初対面の出来事。

 それから毎日のように顔を合わせることになるのだけれど。彼らの優秀さは、短期間でも理解できた。
 第一営業部のジェイド・リーチ先輩。
 大手企業からの契約も多数、難攻不落と言われるほど何人もの営業が敗北してきた企業からも契約を勝ち取ってきた、二十代後半の若さで当営業部の成績トップだそうだ。
 なのに物腰も柔らかく、周囲のことも気に掛けてくれる。
 それからウェブデザイン部のフロイド・リーチ先輩。
 調子が良い時の彼はとにかくすごい。洗練されたデザイン、機能的なサイト。ただし調子が悪いと、壊滅的なコードが記述されているとか。
 ジェイド先輩が契約を取り、フロイド先輩がデザイン業務をする、というのが多いようだった。先輩たちは生まれた時から一緒にいるからか、お互いに意思疎通が早くて他の人と組むよりも良い成果をあげるらしい。。
 兄弟仲は良いらしく、昼休みにはよく二人で食事を摂っている。一緒にいない時は大体、外出や会議だったり、作業が立て込んでいたりする時だ。
 というのが、働き始めてから半月ほどの、慌ただしい中で得られた状況だった。

 その後も少しずつ彼らを知っていくうちに、疑問が浮かんできた。
(あの忠告、なんだったのだろう?)
 仲の良い先輩の言うことを疑うわけではないけれど、ジェイド先輩は怖い人とは感じない。
 かといって、悪意でそんな風に言ってきたとも思えなかった。
 疑問を抱いたまま、更に月日は流れていく。慣れない仕事で覚えることも多く、忙しくしているうちにそんな忠告はすっかり忘れかけていた頃。

「この案件を、貴方にも手伝って頂きます。お客様の所に、一緒にご挨拶に行きますよ」
 そう告げられたのは、出会いから数ヶ月。季節が一つ変わろうとしている頃だった。
 ジェイド先輩は忙しいので、持っていた企業の案件を一つ手伝わせて貰えることになった。当面は先輩と一緒にこの案件にかかることになるけれど、上手くできたら完全に引き継いで、一人で受け持つことになるかもしれない、との話だった。
「頑張ります!」
 営業部と言いつつ、今までは雑用的な仕事が多かったので、ようやく営業らしい仕事ができそうだと期待が高まる。
 先輩と一緒に午後から外出なので、早めに社員食堂で昼食を摂ってから出ることになった。
 まだ人もまばらな社員食堂で、安価なランチセットを選ぶ。
 先輩はセットのご飯を大盛りにし、更におかずを追加していた。体格が良いからかよく食べる。やり手の先輩だけれど、まだ二十代なんだよなぁ、と妙に感心してしまう。
 向かい合って食事を摂っていると、どこからか女性たちが来た。確か、別の営業部の人たちだ。
「ここ、いいですか?」
「どうぞ」
 ジェイド先輩はにこやかに答える。その瞬間、話しかけてきた女性たちが色めき立った。
 食事もそっちのけで、女性たちはジェイド先輩にあれやこれやと話しかけている。
 その光景はなんだか昔、学生時代によく見たものを思い起こした。クラスでモテる男子に女子がキャーキャーしている、アレだ。
 社会人になっても根本的な部分は変わらないんだなぁ。なんて、そんなことを思いながら、新人の自分は邪魔にならないように黙々と食事を口に放り込む。社食のハンバーグは、値段の割には美味しい。
「ジェイドさんは、彼女いないんですか?」
「フフ、残念ながら……」
 意外だ。これだけ容姿が整っていて仕事もできる、そして人当たりも良いとなれば、女性が放っておかないだろうに。今だってそうだ、女性たちの熱い視線を一身に受けている。選び放題に見えるけれど、想い人でもいるのだろうか。
 ……先輩のような人に応えないんだとしたら、相手はどんな人なのだろう。
 つい考え込んでしまい、先輩の顔をじっと見すぎていたのか、目が合ってにこりと微笑まれた。
「す、すみません!」
 気にはなったけれど、不躾だった。慌てて皿へと視線を落とす。食べるのに集中するフリをしているけれど、話は耳に届いている。
 女性たちの話は他愛ないものだった。要は親しくなりたくて色々と聞き出したりアプローチしているという感じの。ジェイド先輩は、当たり障りなく答えていたようだった。ちょっとだけ、どこまで本当なのだろう、と疑念が浮かぶほどに。
「では、そろそろ外出先に向かわなければいけませんので」
 自分が食べ終えてからはのんびりお茶を飲んで待っていたけれど、どうやら先輩も食べ終えていたようだった。出かけると言われ、慌てて自分も食器を片付けようと立ち上がる。
「はーい、行ってらっしゃーい」
 女性たちは先輩と話せたからなのか、やけに上機嫌に見えた。
「行きましょうか」
 食器を片付け、一度デスクに戻って鞄と資料を手に外出する。
 こちらの方は、何も問題なく進んでいった。

 仕事を覚えるにつれ、先輩に教わる機会や同行することも増えていく。他の先輩につくこともあるけれど、ジェイド先輩は教え方も上手ければ、忙しいはずなのに新人の自分のことまで気に掛けてくれる。いずれは先輩の負担を減らせるように、と仕事を貰っているけれど。そのうちにフロイド先輩とも話す機会が増えてきた。
 今日もまた、ジェイド先輩の作った資料をフロイド先輩のところへ持って行くお使いだ。
 ウェブデザイン部は、営業部と同じフロアにある。少し歩けば、すぐに着く距離だ。
「あー……無理……」
 フロイド先輩に近づくと、唸りながら机にべたりと突っ伏していた。その様は、どう見ても機嫌が悪い。いくら用事とはいえ、剣呑な空気を放つ先輩に話しかける勇気はなかった。
 フロイド先輩は天才肌で、気分屋でもあるらしかった。基本的には優しいけれど、煮詰まっていたり、気が乗らない時は、まず近寄れない。捕って食われそう、という雰囲気がある。変な意味ではなく、頭から丸かじりされそう、みたいな……実際にそんなことはしないだろうけど、ものの例えだ。
 どうしよう。と戸惑っているうちに、フロイド先輩は立ち上がった。
「下行ってくる」
 周りにいた仲間に告げ、財布を持って部屋を出て行ってしまった。
 下、というのはビル内にあるコンビニかカフェのどちらかだろう。先輩は煮詰まると、よく買い物に行くらしい。
 居なくなったことに正直ほっとしてしまう自分がいた。機嫌が良いときは優しいけれど、不機嫌な時は空気が凍りそうなくらいに感じる。まぁ、ウェブデザイン部の人たちも、営業の先輩たちも既に慣れているようだけれど……。
 伝言を入れたふせんを資料の上に貼り、それを置いて自分のデスクに戻る。念のため周りの人にも伝えておいた。これで役目は果たしただろう。
 そう安心して次の仕事に手をつけ、しばらく経った頃。
「おつかれー」
 突然背後から掛けられた声に、びくっと肩が跳ねた。
 恐る恐る振り返ると、そこにいたのはフロイド先輩だった。
「お、お疲れ様です」
「急に声掛けたからびっくりした? ごめんねー」
 そう言いながら先輩が差し出してきたのは、チョコ菓子の箱だった。
「資料ありがと。これあげる」
「えっ、あっ、ありがとうございます」
 それを受け取ると先輩はひらひらと手を振って、自分の席に戻ってしまった。
 今日のフロイド先輩は、コンビニで大量にお菓子を買ってきたパターンのようだった。……多少驚いたけれど、このお菓子は残業タイムにでもありがたく頂くことにする。こういうのは初めてではなかったけれど、やっぱり慣れない。
 それにしても、何度もお菓子を与えられていると、餌付けされているような気分になってくる。けれど一応、可愛がられていると言っていいのだろうか。
「機嫌がなおったようですね」
 こともなげに、ジェイド先輩が言ってきた。双子の兄弟で生まれた時からずっと一緒にいるのだから、ジェイド先輩には日常的なものなのだろう。
 何がきっかけであんなに上機嫌になったのかは分からないけれど。あの調子なら、すぐにデザインを完成させてくるに違いない。
 机の端に置いた、海の生物が描かれたチョコ菓子のパッケージを見ながら、そんなことを思った。

 

「仕事は順調?」
「はい、おかげさまで!」
 先輩と数ヶ月ぶりの二人飲み。先輩は経理部でフロアも違うし、営業部の自分は退社が不規則になりがちだから、こうして飲みに行くのもなかなかタイミングが合わなかったのだ。
「そういえば、先輩が言っていた意味ようやくわかりました」
「何かあった?」
「最初の忠告の意味を痛感しましたよ」
 そうして、グレープフルーツサワーで喉を潤してから、最近あった事件のことを先輩に話し始めた。

 それは数日前、外出帰りのことだった。
 真っ昼間、昼休みも終わる時刻とはいえ人通りもそれなりにある会社前の通り。向こう側から勢いよく走ってくる男に、違和感を覚えた時には既に遅かった。
 強い衝撃に跳ね飛ばされる。
「いった……」
 尻餅をついて、すぐに荷物がないことに気づき青ざめた。
「あっ鞄!」
 ひったくりだ。まさかこんなところで。動揺に手が震えていると、聞き慣れた声がした。
「大丈夫ですか」
「えっ、あ、ジェイド先輩」
 顔を上げた瞬間、手を差し伸べてくれているジェイド先輩の向こうで、すごい速さでひったくりを追いかける後ろ姿が見えた。
「っざけんな! 逃がさねぇからな」
 道行く人たちにぶつからないように器用に避け、それでもあっという間に逃げた犯人との距離を縮めていく。
 追いついた、と思った次の瞬間には、犯人の背中に跳び蹴りが入っていた。
 そのまま地面に倒れ伏した犯人に乗り上げ、後ろ手に腕をひねりあげる。
 そうして引きずりながら戻って来た。鞄もしっかり取り戻している。
「離せ! くそっ、なんて力だ」
 犯人は必死に抵抗しているけれど、フロイド先輩は軽々と押さえ込んでいる。ジェイド先輩は隣で電話を掛けていた。おそらく警察だろう。
「まず謝れよ」
「すっ……すみませんでした……」
 フロイド先輩が、犯人を睨み付けながらドスの利いた声で言う。それに気圧されたのか、犯人はあっさり謝ってきた。謝ったからといって、これでおしまい、というわけにもいかないけれど。
 ざわざわと人が集まってくる。だいぶ騒ぎになってしまったようだ。そのうちに警官が駆けつけ、犯人は捕まった。
 その後事情聴取の為に署まで行くことになったが……。
「さて、お話をしに行かなければなりませんね」
「えぇーだりぃ……」
「そういうわけには行かないでしょう、フロイド」
 交番は近くにあるので、歩いて向かうことになった。ジェイド先輩がもう一度、電話をかけ、上司に事情を説明していた。
「ごめんなさい、自分の不注意のせいで先輩たちまで……」
「謝る必要はありませんよ、悪いのは貴方ではなく、犯人なのですから」
「怪我もなさそうだし、取り戻せてよかったねー」
「あっ、はい、おかげさまで」
 なるほど、これは確かに危険だ。と妙に感心してしまった。

「ただでさえ魅力的な人たちなのに、こんな格好いいことされたら惚れるのもわかります」
 ドキッとした場面は何度もあった。虜にされる人が男女問わず多いのもうなずける。
「あの兄弟に惚れたら茨の道だぞ~」
 からかうような先輩の言葉に、慌てて首を振った。
「いえ、恋人いますし」
 いなかったら危なかったかもしれない……なんて一瞬考えたけれど、いなくてもそういう感じではないと思う。
「どちらかというと先輩たちは遠い世界の住人というか、芸能人でも見ている気分になるのであまりそういった感覚はないんですよね」
 先輩としては優しいし頼れるから好きだけれど。
「あはは! それちょっとわかるかも」
「でも、まわりはそう思ってくれませんよねー」
「ただの後輩だとしても、一緒に居られるだけでずるい、とかねぇ」
 立ち位置が、難しい。ジェイド先輩たちとはもちろん仕事上の関係しかない。自分はただの後輩だ。新人という立場なので、部内の他の人よりも相手にされていることが多いかもしれないけれど。その、一緒にいる自分に対して、部外から羨望の視線や、嫉妬の感情などが突き刺さるようになった。呼び出されて怖い先輩にいじめられるんじゃないか、とは考えたことがある。特に何かをされたことは、今の所はないが。
「それが原因で何人か辞めてるしねぇ、参っちゃうよ」
「やっぱりあったんですかそういうの」
「君みたいに指導されてるってだけで、嫌がらせ受けちゃってさー」
 聞いているだけでぞっとする。自分はそういうのがないだけ幸運なのかもしれない。
「何年か前にパタッと止まったけどね。嫌がらせしてた子が何人も、突然辞めたりして」
 それはそれで、なんだか裏がありそうで怖い話なのだけど。深く追求しない方がいいな、と考えることを放棄した。
 そして先輩はあっさりと話題を変えた。
「っていうかあの兄弟、あれだけモテるのに、学生時代から彼女がいるって話は聞かないんだよね」
「そこは意外なんですよねー」
「まぁ、遊び歩いてるから特定の相手は作らない、っていう説もあったけど、何か違う気がするんだよね」
「それは思います。なんだろう、根本的に興味がなさそう、というか……男性にも女性にも優しいし紳士的なんですけど、何か引っかかるというか」
 優しい人ほど他人に無関心、という話を思い出した。実際どうなのかは分からないけれど、なんとなくそれに近いものを感じていた。
 自分にも、部署内外の人にも、外で困っている人がいた時でさえ、確かに優しいのだけれど……。
「学生の頃から、そこだけ謎なんだよねー。誰に聞いても本当のところはわかんないの」
 疑問に思いながらも、サワーを口にする。
 先輩たち兄弟は、なんというか色々と噂も多い。
 いつも違う女性を連れているだとか、寝た相手は三桁にのぼるだとか、ちょっとありえそうなものから、実はヤクザの息子だとかいう根も葉もなさそうなものまである。
 あれだけ目立つ存在なら、好意だけじゃなく悪意も抱かれるのだろう。
「その謎が魅力でもあるのかもしれませんけどね」
「言うね~」
「プライベートがどうあれ、自分にとっては優しくて頼れる先輩たちなので」
 ジェイド先輩は自分が知る限りは、優秀で人当たりも良い、優しい先輩だった。フロイド先輩だってそうだ。多少気分屋だけど、可愛がってくれている。
 たとえ本性が悪人なのだとしても、嫌いになれないだろうな、とも思う。それが作りものや表面だけなのだとしても、自分が見ているものが全てだから。
 仕事上の先輩後輩なのだから、それで充分だとも思う。
「あはは、配属されたのが君でよかったよ。去年は大変だったからさぁー」
 そう言って先輩は過去のことを話し始めた。リーチ先輩は本当に色んな人に好かれるんだなぁ、と妙に感心してしまう。色恋沙汰でのトラブルなんて先輩たちはいくらでも経験しているらしく、実は人を誑かす悪魔だ、と言われても今なら信じてしまいそうだった。

 

 そんなこんなで、同じ部署の後輩としてそれなりに仲良くさせて貰っていたが。とあるきっかけで、先輩たちの謎の一つを、私は知ることになった。
 午前中、朝礼のあと。営業補佐で事務作業をしてくれていた女性が辞めることになったので、部内の女性の先輩たちがあれこれと話し合っていた。
「お店の方は?」
「いつもの場所、気に入ってたけど……」
「でもあそこに比べると他は……」
 しばらく話し合っていたけれど、なかなか決まらないらしい。パソコンの画面を見ながら、二人して唸っている。
 その人が休みのタイミングで、送別会についてや、何をプレゼントするか、その予算などを決めてしまおうと、ずっと話をしていた。プレゼントはすぐに決まったようだが、店がなかなか決まらないらしい。
「どうかされました?」
 難航しているのを見かねてか、ミーティングから戻って来たジェイド先輩が訊ねてきた。
「事務の彼女、今月で退社になるから」
「あぁ、送別会ですか。でしたら、予約は僕にお任せください」
「でもジェイドさん、あそこのお店、海鮮メインじゃないですか。彼女、妊婦さんだから食べられないものが多そうで」
「大丈夫ですよ、そこはしっかり伝えておきます」
「そうですか? だったら、お願いします」
「ええ、予算も早めに出してもらいますね」
 今日の予定や作業をチェックしながら、そのやりとりをなんとはなしに聞き流していた。歓迎会は社内の合同で社員食堂でやったので、外のお店でこういったことをするのは初めてだった。
「ちょっと電話をしてきますので、この資料の印刷をお願いしてもいいですか?」
「はい、行ってらっしゃい」
 渡されたメモに記載されたファイルを確認して、印刷に取りかかる。今日は事務の人がお休みだから、雑務は主に自分の仕事だ。
 行きつけのお店がある、というのは前に聞いたことがあるけれど、先輩たちが言っていたのは多分その店なのだろう。営業部に席を置いているけれど、ウェブデザイン部との間で仕事をやりとりしていた人なので、二部署の中で行ける人が参加する形だ。自分も参加することになるので、素直に楽しみだった。

 

 そして月の終わり、送別会当日の仕事が終わった後。皆でその店へと移動し、その建物を見上げて思わず目をみはった。
 小さな城、もしくは洋館のような洒落た外観の上品なレストラン。店内には水族館のような大きな水槽があり、見た目も綺麗な魚が泳ぎ回っている。まるで海の中にいるみたいだった。
 奥の多人数用の席へと案内され、送別会の主役を中心に、それぞれ席に着いた。女性の先輩たちが、話しやすいように事務の先輩の周りへ。男性陣はその外側、そして新人の自分は離れた場所で、ジェイド先輩の隣にいた。
 上司の簡単な挨拶の後、料理が運ばれてくる。
 小さな硝子の器に盛られた豆や芋類のチーズ和え、蛸のマリネサラダ、トマトとチーズのブルスケッタなどの前菜と、ワインと、ワインに似た瓶のブドウジュース。
 友達とよく行くような居酒屋とは違い、見た目からして上品だ。
 器が各自に行き渡るようにまわして、食事に手をつける。一口食べただけで、感嘆の溜息が漏れた。この前菜だけで、いくらでも食べていられそうだ。
 その次は野菜のたっぷり入ったスープと、しらすとキャベツのパスタ、チーズとキノコのリゾット。
「げぇ、キノコ……」
 フロイド先輩が、ジェイド先輩の方を恨めしそうな目で見つめている。キノコが苦手なのだろうか。
「僕のせいじゃありませんよ」
 ジェイド先輩はなんだか嬉しそうにしている。多分、好きなんだろう。
「食べないのなら僕が貰いますよ?」
「シイタケじゃないからいいや」
「おや残念」
 結局、フロイド先輩は自分で食べるらしい。
 周りの話をなんとなしに聞きながら、料理を口に運ぶ。
 その次はサーモンのソテー。……スーパーで買った鮭を焼いたのとは全然違う、なんて、口にしたら笑われそうな事を思いながら黙々と頬張っていた。
 和気あいあいとした空気で、食事の時間は進んで行く。全員ではないけれど、二部署合同となれば十人以上の大人数で、かなり賑やかだ。でも、みんな楽しそうに食事を楽しんでいる。
「ジェイド先輩、素敵なお店を知ってるんですね」
「貴方は初めてでしたか。ここは知人がいるので、何度か利用しているんです」
「でもわかります。雰囲気も素敵だし、お料理もとても美味しいです」
「そうですか、彼も喜びます」
 向けられた視線の先を追うと、スーツ姿の綺麗な顔立ちの男性が立っていた。銀色のふわりとした髪に青い瞳で、眼鏡をかけている。手には料理の載ったトレーを持っていた。ワイン煮の牛肉をテーブルに置くと、その人は姿勢を正した。動きの一つ一つまで美しい人だった。
「当店の支配人を務めております、アズールと申します」
 恭しく頭を下げたその人は、ちらりとジェイド先輩とフロイド先輩の二人に目を向け、それから正面に向き直った。
「この度は、送別会の場に当店をお選び頂きまして誠にありがとうございます。どうぞごゆっくりとお楽しみ下さい」
 見惚れるほど綺麗な笑顔。それからその人は、ジェイド先輩へと声を掛けた。
「お飲み物は足りていますか?」
「そうですね、ワインを追加して頂けますか。あと、彼女にはノンアルコールのものを」
「かしこまりました」
「よろしくー」
 フロイド先輩がヒラヒラと手を振った。
 その様子を見ていれば、ジェイド先輩が言っていた知人が彼のことなのだと、すぐに分かった。
「知人って、支配人の方だったのですね」
「ええ、幼馴染みなんです」
 ジェイド先輩の話によると、元々はご両親がやっていたレストランの二号店として、息子の彼が店を構えたらしい。本店の味を引き継ぎながらも、オリジナルメニューの提供など、差別化もしているとのこと。
「オレたちは小さい頃から本店行ってるけどぉ、どっちも美味しいんだよねー」
「最初は宣伝も兼ねて社内の方を連れてきていたのですが、皆さんに気に入って頂けて僕も嬉しいです」
「仲が良いんですね」
「ええ、まぁ、それなりに」
「小さい頃からクラス一緒だったし?」
 ジェイド先輩は淡々と話しているようで、いつもと違うことには気づいていた。フロイド先輩はどこか楽しそうだ。
 けれど二人とも、あの人を見つめる瞳はどこか優しかった。
 あぁ、そうか、と納得する。あの綺麗な人は、先輩たちの特別な人なのだ、と。
 二品目のメインディッシュが行き渡った頃、別の先輩がジェイド先輩に訊ねた。
「そういえば、今日はいつもとメニューが違いますね」
「主役が妊婦さんですから、生ものは外して別の料理を入れて貰ったんです」
「だからぁ、遠慮せずいーっぱい食べてね~」
「ありがとうございます。美味しいです、どれも」
 本日の主役の彼女は、幸せそうに笑っていた。
 美味しそうな料理を食べられないのは、確かに悲しい。お店も、先輩たちも、気遣いが細やかだ。
 そして最後はデザートプレート。こちらも全てカフェインやアルコールが入っていない種類で、選べる珈琲と紅茶も、カフェインレスのものが用意されていた。
 料理を堪能してからもしばし歓談は続いていた。花束とプレゼントを渡すと、支配人の方がみんなで記念写真を撮ってくれた。
 名残惜しいけれど、身重の先輩をあまり遅く帰すわけにもいかない。
 今日でいなくなる先輩は、最後に良い思い出ができたと喜んでいた。
「長い間お疲れ様ー!」
「色々助けて頂きました。どうか、身体に気をつけてくださいね」
「元気なちびちゃん産んでねー」
 そう言って先輩たちは彼女の荷物を持ち、タクシーまでエスコートしていた。荷物も多いだろうからと、手配していたらしい。
 タクシーがいなくなるまで見送ってから、それぞれの帰路につく。店の入り口には、先ほどの支配人もいた。
「……」
 帰る前にちらりと振り返ると、ジェイド先輩とフロイド先輩は、何やら支配人と話しているようだった。とはいえ、支配人は仕事中だろうし、またあとで連絡しますとジェイド先輩の声が聞こえたので、少しの時間だっただろうけれど。
「幼馴染み、かぁ」
 それだけの関係にも見えなかったけれど、それ以上詮索するのは野暮というものだろう。
 ただ、三人でいるその空間も、なんだか幸せそうに見えた。

 

 週が明けて、今日からまたいつも通りの仕事が始まる。今までと違うのは、退職した先輩のデスクに、次の事務担当者が座っていることくらいだ。
 自分のデスクに座り、名刺サイズの一枚のカードを財布から取り出す。深海のような色のカードに、貝殻の絵と箔で店名が入っているもの。
「それは、あの店のカードですか」
 しばらく眺めていると、ジェイド先輩が声を掛けてきた。
「はい! とても素敵なお店だったので、また行きたいなと」
 送別会の日に貰ってきたものだが、このカードを作ったのはきっとフロイド先輩なのだろう。ウェブデザインと印刷物デザインは担当が違うけれど、例外がないわけでもない。ウェブの方と合わせて一緒に作ったように思える。フロイド先輩は画像も自分で仕上げるし、オールマイティになんでもこなす。調子が良いときは、という条件はつくけれど。
 ……なんとなく、大切な幼馴染みという相手のお店に関わるものを、他の人に任せないのでは、と感じただけだ。
「それはそれは、アズールも喜びます」
「料理も美味しかったし、支配人の方も優しそうでしたから」
 率直な感想を返すと、ジェイド先輩の眉根が僅かに寄せられた。それだけで、何故かまわりの温度が下がったかのような、どことなく冷たいものを感じていた。
「貴方……アズールが気になるのですか?」
「えっ?」
「見た目に騙されてはいけません。あれはやめた方がいいですよ。僕も大事な後輩が酷い目に遭うのは見たくないので」
 すらすらとやけに饒舌に告げられる言葉。それがなんだか酷いことを言っているので、面食らってしまった。困惑に止まりかけた思考を、慌ててめぐらせる。
「ち、違います! 狙ってるとかそういうんじゃ」
「おや、違うのですか」
「恋人いますから安心してください! ほんとに、あの料理をまた食べたいなーって思ってただけです」
 なんだか食い意地が張っているような言い訳だけれど、妙な誤解をされるよりはマシだろう。
「そういうことでしたか。そうですね、恋人と行くのにもお勧めですよ。記念日には予約しておくと、ちょっとしたサービスもありますし」
 詰問されていたような緊張感は消え、一転してにこにことお店の良さをアピールされた。さっき感じた冷たい空気は気のせいだったのか、と思うほど、普段通りのジェイド先輩だった。一瞬感じた嫌な空気を追い払うように、大げさなほどに元気よく答えてみせる。
「良いですね! 絶対行きます!」
「きっと最高の思い出になりますよ」
 笑顔で告げるその言葉には、あの支配人への信頼と愛情がこもっているように感じられた。
 雑談を切り上げて、業務に移る。資料を印刷していると、ジェイド先輩はミーティングルームへと向かっていった。
 更に、パタパタと駆け寄る足音が聞こえたと思ったら、フロイド先輩が駆けていって、飛びつくような勢いでジェイド先輩の肩に腕をまわしていた。
「ジェイドー、次は何つくんの?」
「このあと説明しますよ。珈琲でも買って行きますか?」
「んー、今は炭酸の気分」
 その後ろ姿に、何人もの視線が吸い寄せられるように集まっていた。
 熱っぽい視線なんて全く感じていないかのように、二人は他愛ない雑談をしながら遠ざかっていく。
 叶うことのないだろう想いを向ける人たちに、思うところがないではないけれど。彼らが特別な感情を向けるのは、ただ一人、あの人だけなのだ。
 三人でいたときの、幸せそうな空気を思い出して、ふと口元が綻んだ。

 ――本当の彼らを知るのはきっと、あの水槽でできた『海』の中だけなのだろう。その魚たちと同じように、自分はただ言葉を閉ざすだけだ。少しだけ道を交えた彼らの、行く先がよきものであるように。

 2021/01/16公開