近頃、学園内で流れる妙な噂。突然閉じ込められ、指定された課題を達成しないと出られない、不思議な部屋が存在するという。
魔法の気配を感じる部屋、外に繋がっていそうな扉には簡単に開きそうにない鍵。
寮長の個室程度の広さがある部屋には、テーブルと椅子が一組、それからベッドとサイドチェスト。トイレとシャワー、簡易キッチンまで備えられていて、滞在するのに困らない程度の設備が整えられている。
気がついた時にはこの部屋に閉じ込められていた。オンボロ寮の監督生と共に。
「……気に入らないな」
眼鏡を指先で押し上げ、アズール・アーシェングロットは溜め息を吐いた。
突然こんな所に閉じ込めて、一体何が目的だというのか。隣にいる監督生は、おろおろと部屋の中を歩き回っている。
彼女といつも一緒にいるモンスターもいない。彼女自身は魔法も使えない。不安なのだろう、でも一緒にいるのが自分だったことは、彼女にとって不幸中の幸いだろう。
「あ、これ……」
監督生は机の上にいつの間にか現れた紙を手に取った。そして、ほっとしたように顔を緩ませ、その紙をこちらに見せてきた。
書いてあったのはこうだ。
『指を絡めて、十分間見つめ合うこと。四十分以内に実行してください』
念のため、もう一度読み上げてみる。それでも、当然だが書いてある言葉は同じだった。
「本当にこんなことで出られるんでしょうか」
「やってみるしかないですよね」
「……何かの罠だったりとか」
こんな簡単そうな、意図の見えない課題。何か裏があるとしか思えない。
疑わしい気持ちを抱えたまま、他にも似たような紙がないか、それとも紙自体に仕掛けなどはないか、注意深く観察してみる。
「先輩は……私と手つなぐのとか、嫌ですか」
監督生はうつむいてしまった。いつまでも実行しようとせず他の手段を探しているのを、嫌がっているからだと捉えたらしい。
「そんなわけないでしょう!」
彼女が嫌だなんてことは絶対にありえない。けれど、罠を疑うあまりに彼女に誤解させてしまったのは自分の落ち度だろう。
「でも、そうですね。簡単そうな課題ですし、一度試してみましょうか」
堂々と手を握れるのなら、むしろ役得かもしれない、と内心で開き直る。
部屋の中を見渡す。テーブルの前に、椅子は一脚しかない。
今まで歩き回っていたし、十分間ただ立っているのも疲れてしまいそうだから、座れそうなベッドの所へと移動した。
並んで座ってから、向かい合う。
「指を絡めて、見つめ合う、と」
両方の手のひらを合わせ、指を絡め合う。そして。
「目を反らさないでくださいね先輩」
「えぇ、分かっています」
見ているだけ、それくらい余裕だろう。と安易に考えていたことを、後悔するまでそう時間はかからなかった。
「……」
「……」
じっと見上げてくる監督生。彼女を見下ろす自分。流れる沈黙。
「あの。何か喋って下さい」
「わ、私ですか?」
会話がないことに耐えかねて頼んでみれば、監督生の眉がさがり、困ったような顔になった。
「えーっと、えーっと……。せ、先輩って、肌も綺麗ですよね。近くで見ると余計にそう思います」
あまり意識したことはなかったけれど、注目する点がそこだなんて、彼女も美容に興味があるのだろうか。
「それ、ヴィルさんにも言われました。特に何かしているわけでもないのですが、海の住人だからかもしれませんね」
「そうなんですか」
「でも、監督生さんも綺麗だと思いますよ」
トラブルに巻き込まれて傷を作っている姿はよく見かけるけれど、白く滑らかで、荒れもなく柔らかそうで、触れてみたくなる頬をしている。
「……えっ」
「えっ?」
監督生の顔がぱっと赤くなる。急な変化に困惑していると、彼女は照れたように笑った。
「あ、いえ、そんな風に褒められたことがなかったので……」
そのはにかんだ顔が可愛らしくて、どくんと心臓が高鳴った。
「…………」
「…………」
言葉が継げず、再び落ちる沈黙。触れているのが手袋越しでよかった。緊張して汗が浮かんでくる。
「いま何分くらい経ったんでしょうね」
「まだ、そんなに経っていないと思います」
頑張って会話を探してくれたのだろう。……けれど終わってしまった。自分の返答のミスを悔いたがどうしようもない。代わりに何か話を、と思うのに上手く浮かばない。
彼女の瞳に映る自分は、なんだか情けない顔をしている。格好がつかない。
「監督生さんの、好きなものは……」
無理矢理絞り出したのは、特に面白みのない質問だった。
「好きなもの、ですか」
それでも気まずい空気から解放されてか安堵の色を浮かべている。
「色々ありますけど、一番は甘い物ですかね」
監督生は楽しそうに言葉を続ける。今度はちゃんと会話が続きそうだ。
「前に、トレイ先輩に教わってみんなで作ったマロンタルトは絶品でした」
「彼のご実家はケーキ屋だそうですね」
自分は食べたことはないが、有名な話だ。
「はい。他のケーキも美味しくて!」
幸せそうに語るほど、美味しい物だったのだろう。それは伝わる。けれど、自分が目の前にいるというのに、他の男の話で楽しそうにされるのはあまり面白くない。
「それはそれは、僕も一度味わってみたいものですね」
弱味を見せるみたいで癪だが、ここまで彼女が喜ぶ腕前ならば、探っておかなければならない。ケーキを作ってもらうくらいなら難なく交渉できるだろうか。甘い物は太りやすいからと極力避けていたが、彼女が喜ぶのならば少しくらいは我慢しよう。摂取カロリーは他で調整をすれば済む話だ。
自分だってリストランテをしている家の息子だ。料理で他の男に負けたくはない。
……今度、親にも美味しいスイーツの話を聞いておこう。
「アズール先輩?」
「なんでもありません」
小首を傾げる仕草が可愛らしい。大きな瞳にのぞき込まれて、曖昧に笑みを浮かべる。ついつい考え込んでしまっていた。
「話してたら、甘い物が食べたくなってきました」
彼女の屈託のない笑顔。本当に、大好きなのだろう。
「無事に出られたら、モストロ・ラウンジの自慢のスイーツをご馳走しますよ」
「良いんですか!?」
握る手に力がこもり、身を乗り出してくる。鼻先が触れそうなほどの距離まで近づかれ、思わず身を引いてしまった。
視線は反らしていないけれど、間近で見た彼女の顔に、鼓動は落ち着きをなくし、顔に熱が上がるのを感じた。
「ち、近い……!」
「すみません私ったら、つい」
元の位置にすっと引いていったが、彼女は顔を真っ赤にしている。
「そんなに食べたかったんですか」
ここまで勢いよく食いつかれるとは思わなかった。いや、彼女の期待は嬉しいのだけれど、驚いてしまった。
「それもありますが……先輩が誘ってくれたのが……嬉しくて……」
ふにゃりと蕩けるような笑顔。かわいい、と喉元まで出掛かった言葉は慌てて飲み込んだ。
「なんで今そういうことを言うんですかっ」
「えっ、あっ、あ……ちが、ちがくて」
かなり動揺しているのだろう。言葉が見つからないのか、金魚のように口をぱくぱくとさせている。
「ってここまで来て僕から目を離さないで下さいよ!?」
「ちゃんと見てますよ先輩のこと! 先輩こそ、まだ終わってないんですからね!」
分かっている。もう残りは少ないはずだ、こんな所で負けたくはない。
最初から変わらず、手は握って、視線も反らさずにいる。
やっていることは変わらないのに、なんだか妙な雰囲気になってしまった。
そうして今更、ここがベッドの上だということを思い出し、何故こんな所を選んでしまったのか、と後悔が襲ってきた。
いや、座っていられるからという理由だけで、下心はなかったはずなのに。
別に何一つ、やましいことをしているわけでもないのに。
触れた手のひらから、この鼓動が伝わってしまうんじゃないか、なんてことを思う。手袋の中で汗がひどい。緊張に喉がカラカラになる。あつくてあつくて、干からびてしまいそうだ。
「……そんな顔しないでくださいよ」
「普通ですけどっ」
「真っ赤じゃないですか」
耳まで赤く染まり、戸惑いの色を浮かべて見上げてくるし、指に時折微かな力がこもる。彼女も緊張しているのだと強く伝わってくる。
「先輩だって! 真っ赤じゃないですか!」
「あなたのが移ったんでしょう!?」
そんな気はしていた。藪蛇というものだった。
ずっと見ていたい。恥ずかしい。目を反らしてしまいたい。見られたくない。見られている。監督生さんが。……ずっと僕だけを。
色々な感情が浮かんで消える。
あぁもう何も考えるな。もう少し、もう少しだけこうしていれば済むんだ。
自分に言い聞かせるけれど、心は一向に落ち着かない。
せめて時計でもあれば良かったのに。時間の経過が分からない。永遠に続いているような気さえするのに、まだ十分も経っていないとか嘘だろう!
内心でぼやいていると、突然、硝子が割れるような音が聞こえた。
「ひゃっ!」
「うわっ!?」
音に驚いて悲鳴を上げる。魔力がはじけるような気配。思わず音の方に目を向けると、頑丈そうに見えた鍵が跡形も無く消えていた。
十分、無事に経ったのだろう。
「開いたようですね」
「そ、そうですね」
「……」
どちらからともなく、そっと手を離す。目を反らして顔を押さえるけれど、もう今更手遅れだろう。
鼓動はうるさいままだ。しばらく落ち着きそうにない。
ふと横目で監督生の方を伺えば、彼女も同じタイミングでこちらを見てきた。そして慌てて視線を反らした。
「帰りましょうか」
「そうですね」
こうして課題は達成し、部屋から無事脱出できた。
――その後、約束通り、モストロ・ラウンジに招待したものの。妙な緊張は消えないまま、目も合わせることもできず。ジェイドとフロイドに、散々何があったのかと突っ込まれたのは、いうまでもなく……。
2020/05/12公開