トレイ先輩は優しい。その優しさは多くの人に向けられていて、教師からも生徒からも信頼は厚いし、女性のエスコートにも慣れているというのか、物腰が柔らかくて丁寧だ。
 今日は授業が終わったあと、先生の手伝いを頼まれて少し遅くなってしまった。と思ったらトレイ先輩に偶然会って、送っていくよと着いてきてくれた。
 先輩は当然だけど学年も違うし、副寮長としての仕事もある。いつもリドル先輩やケイト先輩と一緒にいることが多いから、あまり一緒にいられる時間は少ない。ハーツラビュル寮で起きた事件に関わった時から知らない仲でもないけれど、そんな私にも色々と気にかけてくれるのが嬉しかった。
 オンボロ寮に着くまでの短い時間が、二人きりでいられる貴重な時間だ。
 他愛ない雑談でも、こうして二人で話せるのが嬉しい。学校帰りにデートといえば、学生っぽいというか、青春っぽい、少し甘酸っぱい気分にもなる。……とはいえ、特に恋人同士というわけでもない。ただ私が片思いしているだけだ。
 もちろん、恋人になれたら、という想いはある。けれどもし告白して、振られてしまったら……もう優しく接してくれなくなってしまったら、と思うとそれはあまりに怖くて、踏み出すことはできなかった。
 今はまだ、これだけでも幸せだと自分に言い聞かせて。先輩を敬い慕う、ただの後輩の一人を必死に演じている。
 人の気持ちにも聡い先輩に、気づかれていないかと心配になることもあるけれど、そんな素振りも見せないので、バレていないのだろう。と思いたい。
 エースとデュースがまた喧嘩をしていたと話をすれば、あいつらはしょうがないな、と笑い。錬金術の授業が難しかったと言えば、俺で良ければ教えるよ、と返され。
 教えてもらいたい気持ちはある。けれど忙しい先輩の手を煩わせるのも申し訳ない。社交辞令で言ってきたのかもしれないが、きっぱり断るのも申し訳ない。上手く間をとって、どうしても分からなかったら教えて下さいとお願いしてみれば、いつでも頼ってくれ、と微笑まれた。
「……先輩は優しいですね」
「ん? 褒めても何もでないぞ」
 そう言って屈託なく笑う。穏やかに細められる、眼鏡の奥の淡い瞳が好きだった。
「成績も良くて、すごく頼りになりますし、面倒見も良いですし」
「なんだなんだ、今日はやけに褒めてくるな」
 食べたいケーキでもあるのか? と冗談めかして訊ねてくる。先輩の手作りケーキはこれ以上ないほど魅力的だけれど、別にそういう目的で言ったわけではない。ついつい本音が零れ出ていたことに気づき、変に思われないかと慌てて言葉を取り繕う。
「え、あの。なんていうか、お兄ちゃんがいたら、こんな感じかな、って」
「はは、俺は確かに弟と妹がいるお兄ちゃんだけどな」
 そう聞くと面倒見の良さにも納得する。
「こんな優しいお兄ちゃんがいて、弟さんと妹さんが羨ましいです」
「……そうか」
 そうこうしているうちに、オンボロ寮の入り口についた。
「先輩、送ってくれてありがとうございました」
 丁寧にお辞儀をすると、いつもなら手を振って帰っていくのに、今日はそのまま動かず、じっとこちらを見下ろしていた。
「トレイ先輩……?」
 夕陽に照らされた顔が、深い影に彩られている。鮮やかな緑色の髪も赤に飲まれ、いつもと違う色を見せていた。
「優しいお兄ちゃん、ね」
 ぽつりと呟かれた言葉は、低く重く耳に届いた。
 あれ、私は何かまずいことを言ったのかな。自分では変なことを言ったつもりはないのだけれど、何か気に障ることをしてしまったんだろうか。
 不穏な空気に戸惑ったまま動けないでいると、先輩は私の顔の横――寮の外壁に静かに手をついた。片手だけだから、逃げようと思えば反対から逃げられる。なのに、足が、視線が、縫い止められたかのように動かない。
「俺が優しい?」
 挑発するような、悪意のこもった歪んだ笑み。初めて見るその顔に、ぞっと背筋が寒くなる。いつもの先輩ではなく、別人のような恐怖感。けれどそれは一瞬で、いつもの人の良さそうな笑みにすぐに戻った。
「ダメだよ、監督生。あんまり簡単に気を許したら」
 小さな子供に言って聞かせるように、それこそお兄ちゃんのような顔と声で告げてくる。
「俺だって男なんだから、送り狼になるかもしれないぞ?」
「す、みません、でした」
 口調と言葉がちぐはぐすぎて、頭にすんなり入ってこない。とても本心から言っているようには見えないけれど、それでも私がふさわしくない態度をとったから、注意されているのだろうとは理解している。
「あと、あんまり褒め殺すのも、他の奴らだと勘違いするかもしれないからな。俺にはいいけど、気をつけろよ」
 こくこくと頷くと、また子供にするような態度で、頭を撫でてきた。
「じゃあ、またな」
 そうして、何事もなかったかのように、いつもと同じ調子でひらひらと手を振って、去っていった。
 私はただ呆然と、その背が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
 夕の赤が地平の向こうに隠れるにつれ、夜の色が空を塗り替えていく。今の出来事は現実と夢の狭間にあるようなこの時に見せられた夢だったんじゃないか、とさえ思える。
 けれど髪に残る感触が、温かさが、まだ消えていない。
 思考は混乱し、鼓動はせわしなく動いている。硝子に映った自分の顔が赤いのは、夕陽の色だと思うことにした。

お題「黄昏」 2020/05/04公開

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