「あぁ、ユウさん。アズールを迎えに行って頂けますか」
 開店前のモストロ・ラウンジを訪ね、そう頼まれたのはつい数分前のこと。
 ジェイドに告げられたアズールの行き先は、学園内にあるプールだ。初めて足を踏み入れたが、元いた世界の学校よりも、ずっと広くて綺麗だった。
 靴と靴下を脱いで素足になり、プールサイドへと向かう。奥の方から、かすかな声が聞こえていた。一歩一歩足を進めていくうちに、その声は鮮明に耳に届くようになる。心地よく鼓膜を震わせるテノール。初めて聞いたはずなのにどこか懐かしい、柔らかな旋律。
 以前、ジャックと共にアズールの素行を調べていた時に、隠れて聞いていたことがあった。その時の歌声は誰かから奪ったものなのかと思っていたが、今でもアズールの歌は聞き惚れるほどに美しかった。
 誰もいない貸し切りのプール。海での、本来の姿に戻っているアズールは、歌いながらゆったりと広いプールにたゆたっていた。透き通った海と晴れた空を混ぜて溶かしたような色の瞳は今は閉じられていて、髪と同じ淡い色の睫毛が肌に影を落としている。
 人の姿をとっていても綺麗な顔立ちだとは思っていたけれど。人魚というのはこんなにも美しい存在なのかと、溜め息が出る。
 腰から下は人間の足ではなく、魚の尾ひれでもなく、八本のタコの足。水中を泳ぐでなく、水に揺られて漂っている姿。何も飾るところのない、そのままの彼。あまり触れることのない、彼の一面。
 声をかけるのも忘れていると、不意に彼の瞳が開かれた。歌声が途切れる。
「ユウさん、来ていたんですか」
 彼は慌ててこちらに近づいてきた。自分もすぐ近くまで歩み寄る。
「声をかけてくださればいいのに」
 プールの縁に肘をついて、少し気恥ずかしそうに見上げてくる。誰もいないと思って歌っていたのだろうに、なんだか悪いことをしてしまった。
「すみません」
 つい見惚れてしまっていた、なんて本当のことは恥ずかしくて言えなかったけれど。
 ゆらり、と水の中でうごめく足を、無意識に視線が追いかける。それに気付いたのか、アズールは笑った。
「気になりますか、この足が」
「ちゃんと見たのは初めてなので……」
 前回見たのは、オーバーブロットで暴走していた時の姿だ。禍々しい闇をまとった彼は、今の穏やかに微笑む彼とは別人のようだった。
「タコ、ですね」
「そうですよ」
 聞いて知ってはいたけれど、改めて近くで見ると、そんな見たままのことしか言えなかった。
「触ってみますか?」
 言葉と共に、アズールは足の一本をこちらに向けてきた。ためらいがちに視線を向けると、あなたなら構いません、と微笑まれる。
 おそるおそる触れてみると、体温なのか水の温度なのか、少し冷たい。そっと撫でてみれば滑らかな感触があった。……そもそも、元いた世界でもタコを触る機会なんてそうそうなかったので、なんだか新鮮だった。
「少し、くすぐったいですね」
 それは感覚の方なのか、感情の方なのかは分からなかったけれど。その笑顔に、また目を奪われてしまう。じっと見つめられ、心臓がうるさく鳴り出す。触れている所から伝わってしまいそうで、そわそわと落ち着かない心地になって……。
 それに気を取られていて、彼の笑みに少し違う色が混ざったことに、気づかなかった。
「えっ、……わ!」
 背後からもう一本別の足が伸ばされ、そのまま背中を押し出される。頭から水に飛び込む形になり、慌てて水を掻いた。
(お、重い……!!)
 水を吸った服は重く、身体が沈みそうになる。軽くパニックに陥ってもがいていると、強い力で引き寄せられた。慌てて腕の先に触れたものにしがみつく。顔が水面から出て、空気を肺にいっぱい吸い込んで、ようやく落ち着きを取り戻した。
「あなた、泳げなかったんですか」
 焦ったような顔、申し訳なさそうな声。まさか溺れかけると思っていなくて、軽い悪戯のつもりで押したのだろう。
「泳げなくはないんですが、服が濡れて重くて」
「あぁ、そうか……本当にすみません」
 服を着たまま泳ぐなんてこと、彼らにはないのだろう。水泳の授業はあってもその時は水着だ。
 ふと顔をあげると、鼻先が触れそうなほど近い距離で目があった。彼の両腕と足に支えられ、首に腕を回す格好で抱きついているという自分の状態に、今更気付く。顔に熱が集まるのが、自分でも分かった。
 じっと視線が注がれる。まっすぐで強い蒼に射貫かれ、思わず目を閉じた。
 次の瞬間、少し冷たい、けれど柔らかな感触が唇に触れる。それはすぐに離れて、もう一度、今度はもう少し長く重ねられた。優しく触れるだけの口づけ。
「……これ以上は、いけませんね」
 名残を惜しむように身体が離れ、プールサイドへと抱き上げられた。アズールはまた、プールの縁に肘だけついた格好で見上げてくる。
「先に行ってください、あなたの制服も乾かしますので」
「えっと、先輩は」
「おや、僕の裸が見たいんですか?」
 それは別料金ですよ。と片手をあげ、挑発的に口の端をつり上げる。表向きの、商売っけのある時の姿というのか。見慣れた顔だった。
「そ、それは遠慮しておきます!」
 本来の姿よりも、人型の裸の方が見てはいけないもののような気がする。嫌ではないけれど流石に恥ずかしい。慌てて立ち上がり、背を向けて入り口へと足早に歩き出す。くすくす、と笑う声が背後から聞こえた気がしたけれど、気付かないふりをした。
 水を吸った服が肌に張り付くのも、その重さも気にならないほど、なんだかふわふわしていた。胸がドキドキして、ぎゅっと締め付けられるような感覚。さっき見た光景も、唇に残る感触も頭から離れてくれない。
 あぁもう、迎えにきただけだというのに。
 この熱はしばらく、引きそうになかった。

2020/04/25公開

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