日付の変わる、少し前。シャスポーは部屋から抜け出し、食堂へと向かっていた。いつもは早めに就寝することにしているが、何故か今日に限って寝付けなかったので温かいものでも飲もうと出てきたのだ。
 同室の三人は多分眠っているんだろうが、いちいち様子など見ていない。起きている時間ならばタバティエールあたりに何か持ってこさせるのだが、寝ているかもしれないのにわざわざ起こす気にはなれなかった。眠れないなどと言えばあれこれ煩く心配されそうで、その方が面倒だしそれならばと自分で出向くことにしたのだ。
 夕食後からしばらく騒がしかった食堂も今はすっかり静かになっていた、一日の疲れを癒やそうと酒を酌み交わしていた連中も、みんな部屋に戻ったようだ。明かりは落ちているが、奥の方だけ少し明るい。
 同じように眠れない誰かが、調理場にいるのだろう。面倒な相手でなければいいが、と内心思いながらも調理場に足を踏み入れる。
 そこにいたのは一人の女性だった。ゆるく括られたプラチナブロンド。薄青のワンピースにショールを羽織っている。小さな鍋を火にかけて、何かを温めているようだった。
 シャスポーはこの幸運に感謝した。面倒どころか、彼女ならば大歓迎だ。
「マスター、まだ起きてたの?」
「あ、シャスポー」
 呼ばれて初めて気が付いたのだろう、顔を上げたマスターがふわりと微笑んだ。
「もしかして眠れない?」
「ううん、そういうわけじゃないの。薬品の調合をしていたら少し遅くなってしまって」
 いつもより遅い時間にシャワーを浴びて、そしてここに立ち寄ったのだという。
「これを飲んだらもう寝るわ」
 彼女が鍋で温めていたのはミルクだった。そこにほんの少しのブランデーを足す。
 マスターはカップを二つ用意して、鍋の中身を注いでいった。
「どうぞ」
「ありがとう、マスター」
 何を言わずとも差し出してくれたカップが嬉しくて、つい口元が緩む。
 寝付けない苛立ちなんてとうに消えていた。この時間の為だったのだと思えば逆に偶然に感謝したいくらいだ。
 カップが空になるまでの数分。短い間だけでも、二人きりで一緒にいられるならとても大切で幸せな時間だ。
 マスターがカップを両手で持って中身を吹き冷ましているのを、シャスポーは目を細めて見ていた。些細な所作のひとつひとつ、白く細い指や綺麗に整えられた爪の先まで、愛おしくてたまらない相手。
 自分もカップに口をつけると、甘く優しい香りが口の中に広がった。身体の芯から温めてくれるような、心を落ち着けてくれるような味だ。
「おいしい」
 そう告げれば、マスターはこちらを見上げて柔らかな笑顔を浮かべた。
「そう、よかった」
 飲み切ってしまうのが勿体ないくらい。けれど、あまり悠長にしていては冷めてしまう。せっかく彼女が作ってくれたのに、それもまた申し訳ない。
 他愛ない会話をしながら、シャスポーはマスターが飲むのに合わせて、少しずつホットミルクを口にしていった。
 飲み終わったカップと鍋を片付けるのを手伝って、部屋まで送ることにする。
 基地の中で何があるわけではないだろうけれど、こんな遅い時間に少しでも彼女を一人で出歩かせたくなかったし、何より自分がもう少し傍にいたかった。ほんの少しのことだとしても、構わないのだ。
 宿舎の奥、自室の扉をあけて明かりをつけると、マスターはシャスポーを振り返った。
「ありがとうシャスポー」
「こちらこそ、ホットミルクおいしかったよ」
 彼女の額の髪を撫で上げて、そっと唇を寄せる。くすぐったそうに目を細めるマスターから手を離すと、シャスポーは自分の部屋に戻ろうと背を向けた。
 今夜はいい夢が見られそうだ。
 ……と、思っていたのだが。
「っ、あの、シャスポー」
 くい、とシャツを引っ張られ、シャスポーは振り向く。
「マスター? どうし、た……」
 言い終わる前に、シャスポーは言葉を失った。
 目の前に広がる白金の糸、それから、唇に触れた感触。ちょん、と戯れのように触れたそれに気付いた瞬間、シャスポーの思考は止まった。
 マスターは耳まで真っ赤に染め、視線を逸らしている。
「お、おやすみなさい……」
 消え入りそうな声で告げられた言葉に、シャスポーはマスターの肩を掴んで、部屋へと入り込んだ。
「えっ、な、なに?」
 戸惑いの声を上げるマスターの唇を自分の唇で塞いでやれば、彼女はびくりと肩を跳ねさせた。
 何度か触れ合わせて、薄く開いた唇から舌を差し入れる。
 まだ甘さの残る口内をたっぷりと味わうようにして深く口づけると、息苦しいのか、マスターは胸を押し戻そうとしてきた。それでも、彼女の抵抗なんて些細なものだ。
 逃がさない、というように、柔らかな身体を抱き締める。
「はっ、……ぁ……」
 唇を解放してやれば、眼鏡越しに潤んだ瞳が見上げてくる。しっとりと濡れた唇はやけに扇情的で。
 ……前言撤回。ゆっくり眠れる、なんて嘘だ。
「ごめんねマスター。もう少し、付き合ってもらうよ?」
 今夜はまだまだ、眠れそうにない。

 2019/05/17公開

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