想いを伝える日、というのはなんて素敵なんだろう。
 幼い頃に抱いた、漠然とした憧れ。いつか私も大きくなって、愛する人ができたら、なんて。そんなささやかな夢も、レジスタンスとして争いの日々に身を投じることになっては、もう叶うことはないのかもしれないと諦めていたけれど。
 それでも友人や家族へ、仲間達へ、感謝を込めて贈り物をする。それだけでも充分楽しかったし、幸せだった。
 今年は貴銃士達のマスターとして、大事な仲間達へ感謝の想いを贈ろう。そう決めたけれど量が量なので、基地にいる自分と歳の近い女性達と一緒に、食堂の厨房を借り切って焼き菓子を作る予定だ。個人の資金を出し合うと言っても、材料も資材も潤沢にあるわけではないし、何より調理場が一つしかないので、協力して作るのが一番効率が良いだろうという結論になったのだ。
 今日はバレンタインデーの二日前。最後の買い出しの為に、マスターは街へ出ていた。
 いつも歩いている街の通りも、今は少し雰囲気が違う。街の至る所で愛する人への贈り物を選ぶ姿が見える。感じる温度は寒いのに、包み込む空気は優しくて胸が温かくなる。
 菓子を扱う店は人気なのか、店の外にまで人が溢れていた。すごいなぁ、なんて感心しながら店の看板を見ると、名前に見覚えがあった。
 確かシャルルヴィルが話していた。最近新しくできた店で、少し高級だけれどすごく美味しいのだ、と。
 店の中にいる女性達は、みんな楽しそうに商品を選んでいる。きっと、一番大切な人に贈るのだろう。
(……いいなぁ)
 昔、自分が憧れた姿がそこにはあった。何も失うことなく普通に街で生活していたら、自分もあの中にいたのだろうか。そう考えると、彼女達が羨ましいな、と思ってしまう。
 本当は、贈りたい相手はいるのだけれど。ただ一人、特別な人が……。
「お姉さんも、よかったら見ていって」
 不意に話しかけられ、マスターは慌てて顔を上げた。可愛らしいワンピースに身を包んだ女性は店員なのだろう。ずっと見ていたから声を掛けてくれたようだ。
「バレンタインまでの限定品もいっぱいあるの。きっと気に入ると思うわ」
 気にならない、といえば嘘になる。甘い物は好きだ。美味しい、と評判なら食べてみたい気持ちもある。……せっかく声を掛けてくれたのだし、少しだけ。少し見ていくだけ。自分に買っても良いのだし。
 そんな風に言い訳をしながら、並んで店へと入った。
 中は煌びやかだった。ショーケースに並ぶチョコレートは、色とりどりの宝石のように綺麗だ。焼き菓子もフィナンシェにマドレーヌ、ダックワーズにサブレ……種類がいっぱいあって目移りする。カラフルなマカロンは、シャルルヴィルがお勧めしていたものだ。確かに美味しそうだけれど、それはまたの機会に。
 限定品と大々的に出されているのは、高級感のある箱に詰められたチョコレートのセットだった。シンプルなハート型、精緻な模様の描かれたもの、金箔で飾られたもの、ナッツや洋酒が中に入っているもの、など。一箱に色々な種類が詰められている。
 見た目も上品で、大人っぽい。一瞬で惹かれた。
 どうしよう、買ってしまおうか。ちらりと値札に視線を移す。少し高級、と言っていたがなるほど。確かに良い値段はする。けれど買い出し用とは別に持っている個人の資金で買える程度だ。他の店に比べれば少々高いけれど、それだけの価値はきっとあるだろう。
 これを、贈ったら喜んでくれるだろうか。いや、でも。
 迷ったのはわずかな時間だった。……渡せなかったら、自分で食べればいいのだし。今しかないものなら、買ってしまおう。
 マスターは目の前の箱を一つ手に取った。

 

 翌日は朝から夕方まで厨房に篭もりきりだった。自分を含めて四人いたけれど、それでも大変だった。生地を大量に作って、ひたすら形成し、焼く。その繰り返し。夕食の支度が始まるまでに終わらせなければいけなかったので、ずっと動き回っていた。
 それでもなんとか形にはなった。みんなで手を取って喜び合って、それぞれ必要な量を分けていく。みんな大切な人に贈るのだ。
「それにしてもあなたすごい量ね」
 文字通り山のような菓子を前に、マスターは笑う。
「貴銃士達もいっぱいるからね。みんなが手伝ってくれて助かったよ」
 それからは片付けが終わるまで、貴銃士の誰が格好いいとかレジスタンスの誰に渡したい、なんて他愛のない雑談が始まった。
 片付けまで終えたあとは部屋に運ぶのも手伝ってくれた。夕飯とシャワーを済ませた後、マスターは菓子を包み始めた。甘いものと、甘さを控えたものと、種類はいくつかある。
 貴銃士達全員と、恭遠の分。同じ衛生室の仲間や他にも世話になっているレジスタンスの人達はいっぱいいるけれど、それはみんなで感謝の気持ちとして一足先に持っていった。
 中身は多少違うけれど同じ大きさの包みに、それぞれ名前を入れていく。
 みんな喜んでくれるだろうか。期待に胸が膨らむ。
 マスターはふと机の方に視線を向けた。そこにはチョコレートの箱が、買ってきた時のまま置いてある。勢いで買ってきたことを後悔はしていないけれど、これは渡せるのだろうか。もし渡したら喜んでくれるだろうか。想像すると胸がドキドキする。でも。
(……、渡せたら、いいな)
 淡い期待と不安がない交ぜになって落ち着かない。でも、それが少しだけ心地良い。
 だって、あなたがいなければ、私はこんな想いも知らなかったのだから。

 

 *****

 

 早朝、基地から近い街の市場。タバティエールは片手に荷物を抱えて、賑わう通りを歩いていた。朝食前に一人こんなところまで足を伸ばして、特に急ぐわけでもない食材なんか買ったりして。そんなことをしている理由はただ一つ、今日がバレンタインデーだからだ。
「……愛の日、か」
 ここしばらくは基地の中も浮き足だっていた。レジスタンスのメンバーだけでなく、貴銃士達も。みんな若いねぇ、なんて笑ってはいたけれど自分だって他人事ではない。マスターに何を贈ろうか、ここ数日ずっと悩んでいた。
 フランスでは恋人と過ごす愛の日。とはいえ、国によって風習は違うし、別に愛だけを伝える日でもない。大体、愛だって色々だ。恋情以外にも、親愛とか友愛とか。
 彼女には好かれていると思う。ただそれは、仲間としての好意、もう少し付け加えるならば保護者的な立場としての信頼とか、そんな感じだろう。自分は貴銃士の中でも長く彼女といる方だから、色々な面で頼られてきたしそれは誇らしい部分でもある。
 自分は、あくまで大人として接していなければならない。自分が抱いている感情なんて、表に出してはいけない、と思う。だって彼女に相応しい人はいくらだっているのだ。自分なんかが想いを伝えるなんてとても。断られて気まずくなるのは耐えがたいし、不都合が多すぎる。だったら、最初から黙っていた方がずっといい。
 ……いっそ彼女に誰か決まった相手がいたのならば、諦めもつくのに。なんて勝手なことを思う。
 こんな時は、素直に気持ちを伝えられるシャスポーが羨ましい。けれど、自分には……。
 荷物を抱える手に力が篭もり、紙袋がガサと音を立てる。タバティエールは溜め息を吐いた。重い感情のこもった空気は白く染まってすぐに散っていった。
 マスターの好きな菓子でも作ろうかとも考えた。けれど昨日一日、マスターと他に何人かの女性達がずっと厨房を使っていたので、早々に諦めるしかなかった。大体、いつも作っているから代わり映えがしないというか、特別感もないし。
 特別な日の贈り物の定番は花だ。恋人にはバラの花束を贈る人が多いという。
 ただ、花束を贈るのはあからさまだし自分には重すぎる。
 いやマスターのことだ、仲間の誰が何を贈ったって、きっと喜んで受け取ってくれるだろう。分かっている。それでも負担にはなりたくない。
 花を売る店の前で足を止める。この日に合わせてか、取りそろえられた大量の花。店員の一人がせわしなく花束を作っている。
 あぁ、でも、綺麗だな。鮮やかな赤いバラ。きっと彼女には花が似合う。
 バラの一輪くらいなら、贈っても許されるだろうか。
 その意味が分からないわけじゃない。けれど彼女が知っているとも限らないし、知っていたとしても白を切ればいい。たまたま良いのがあったからで、深い意味なんてない、と。
 気付いて欲しいのか気付かないで欲しいのか、自分でもよく分からない。
 ずるい大人だという自覚はある。バラの棘が刺さったかのように鈍い胸の痛み。
 この身も、この感情も、君が与えてくれたものだけれど。こんな想い知らなければ、ただ仲間として居られたのに。

 二月十四日バレンタインデー。といっても休日でもなく、任務の予定はないけれどメディックとしての仕事は普段通りある。その合間を縫って、貴銃士達にプレゼントを渡しきるのがマスターの今日の目標だ。忙しい一日になるだろう。メディックの仕事が忙しいより、よっぽど良いのだけれど。
 そわそわと落ち着かなくて、今日は早く目覚めてしまった。朝食前に少し散歩でもしようかな、と森の方まで足を伸ばしてみる。
 まだ寒い季節だけれど朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んでいると気分が軽くなっていく。
 奥の開けたところまで出ると、そこには先客がいた。
「タバティエール」
 彼が朝早くから活動しているのはいつものことだけれど、朝食前のこの時間に森にいるのは珍しい気がする。
「あぁ、マスターちゃん。おはよう」
 煙草でも吸っていたのかと思ったが違った。一瞬だけ驚いた顔をして、すぐにいつもの笑顔で返してきた。タバティエールはゆっくりとこちらに近付いてくる。
「今日はバレンタインだろ? さっき、市場で見つけてさ。だから」
 差し出されたのは、赤いバラ。
「バラ一輪きりで悪いが、貰ってくれるかい? ……感謝の印と思って、さ」
「っ、ありがとう!」
 予想外のプレゼントに、思わず声が大きくなる。彼は、ん、とほんの少し笑いを含んだ声で、ぽんと頭に軽く触れて去って行った。時間的に、食堂へ向かったのだろう。
 一人残されたマスターは、緩む口元を抑えることもできずしばらくそこに立ち尽くしていた。
 誰も見ている人がいなくてよかった。顔が熱い。鼓動が速まる。
 朝から彼の顔が見られて、しかもプレゼントまでして貰えるなんて思わなかった。
「お水、あげないとね」
 食堂に向かう前に一度部屋に戻ろう。花瓶はないけれど何か入れ物はあったはずだ。

 私室に戻ろうと森を抜けたところで、レジスタンスの友人と鉢合わせた。一緒にバレンタインのクッキーを作った仲間だ。
 大事にバラを持っているマスターに、彼女はからかい混じりに訊ねてくる。
「嬉しそうね。どうしたのそれ」
「……好きな人がくれたの」
 自然と口元がほころぶ。感謝の気持ちと言っていたけれど、好きな人が自分の為に選んでくれたものなら、なんだって嬉しいのだ。
 彼女はぱちりと目を瞬かせ、それから微笑ましいものでも見つめるように目を細めた。
「あなたの想い人は随分情熱的な人なのね」
「えっ?」
 予想外の言葉に思わず聞き返す。偶然買ってきてくれたもので、深い意味なんてないと思っていたのに。恋愛話に花を咲かせている時みたいな顔で、彼女は続ける。
「あら、知らないの? それって――」

 

   *****

 

「タバティエール」
 朝食時を過ぎたこの時間なら食堂の裏で煙草を吸っているだろう、と予想したけれどそれは当たっていたようだ。
「マスターちゃん。どうした?」
 煙草を消そうとするのは申し訳ないから止めて、袋から包みを一つ取り出す。
「さっきはありがとう。これは、私からの感謝の気持ち」
 昨日みんなで作ったクッキーの包み。タバティエールの名前が入れてあるものだ。
「え、マスターちゃんから? はは、ありがとな」
 彼が差し出した包みを手にした瞬間、マスターはもう少し近付いて一言だけ告げた。
「……夜に私の部屋に来て」
 言うだけ言って背を向け、逃げるように走り出した。
「えっ、ちょ、ちょっと、マスターちゃん!」
「あ、ドライゼ!」
 呼び止める声は聞こえない振りをして、偶然通りかかったドライゼを追いかける。
 話していればタバティエールはきっとこれ以上追ってこない。でも、部屋に来てくれるだろう、という確信はあった。

 

 夜、夕食も済んだ後の時間、マスターは自室のベッドに座りタバティエールを待ち続けていた。途中で捕まったらきっと何か言われると思ったから、この時間までずっと彼のことは避けていたのだ。それでも貴銃士達にはマスターからの贈り物を渡していくという自分で課した任務はなんとかこなした。みんな喜んでくれていたと思う。それに、プレゼントを用意してくれていた貴銃士達もいっぱいいた。マスターとしては、良いバレンタインを過ごせたと思う。
 けれど、まだバレンタインは終われない。
 机の上には昨日からあるチョコレートの包みと、花瓶代わりの透明な瓶に入れた一輪のバラ。
 緊張を落ち着かせようと深呼吸していたら、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
 声を掛けると、周囲を伺いながらゆっくりと扉が開かれる。
 中に入って扉を閉めると、タバティエールは困ったような顔で言ってきた。
「あのな、マスターちゃん。あんまり軽々しく男を部屋に呼ぶのは……」
 窘められるのは承知の上だ。自分だってこんなことをする相手は選ぶ。というか、他の人なら言ったりしない。
「タバティエール、あの」
 言葉を遮ると、これ以上の忠告は諦めたのか肩を竦められた。せっかく心配してくれたのに呆れたのかもしれないけれど、今はそれよりも大事なことがある。
「さっきのバラ、って」
「…………」
 タバティエールは答えずに、静かな笑みを浮かべている。わずかな沈黙のあと、ぽつりと呟かれた言葉は、けれどしっかり耳に届いた。
「好きに受け取ってくれて、かまわない」
 否定はされなかった。じゃぁ、タバティエールは最初から意味を知っていた?
 だったら、伝えても良いのだろうか。
「ねぇ、タバティエール、これ……」
 チョコレートの箱を差し出すと、彼は戸惑っているようだった。
「贈り物ならさっき貰っただろ?」
「あれはマスターとして、みんなへの感謝の気持ち」
 じっと目を見て、本心を伝える。青灰の瞳に映るのは、緊張した自分の顔。
「これは、『私』から……『あなた』に」
 ドキドキする。壊れそうなくらい、心臓が高鳴っている。
「だからもし、私の思い違いじゃなかったら、受け取ってほしい」
 穏やかに細められた瞳。複雑な色を滲ませた表情と声は、それでも、優しくてどこか照れたようで。
「俺なんかでいいの?」
「タバティエールがいいの」
 彼は箱を受け取ると、不意に引き寄せてきた。その胸に抱き留められて、一瞬息が詰まる。
「ありがとう、こんな日がくるなんて思わなかった」
 彼の胸から聞こえる音は、自分と同じ速さを刻んでいて。
「マスター……いや、――ちゃん」
 名前を呼ばれて、それから、愛の言葉を。私も、と心からの言葉を告げて。身体を離して顔を見合わせて、笑った。

 愛の日は、残り数時間。恋人として過ごすその時間は、互いに忘れられない、甘い甘い記憶へと変わるのだ。

 2019/02/21公開

Leave a comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です