二月十四日バレンタインデー。といっても休日でもなく、任務の予定はないけれどメディックとしての仕事は普段通りある。その合間を縫って、貴銃士達にプレゼントを渡しきるのがマスターの今日の目標だ。忙しい一日になるだろう。メディックの仕事が忙しいより、よっぽど良いのだけれど。
そわそわと落ち着かなくて、今日は早く目覚めてしまった。朝食前に少し散歩でもしようかな、と森の方まで足を伸ばしてみる。
まだ寒い季節だけれど朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んでいると気分が軽くなっていく。
奥の開けたところまで出ると、そこには先客がいた。
「タバティエール」
彼が朝早くから活動しているのはいつものことだけれど、朝食前のこの時間に森にいるのは珍しい気がする。
「あぁ、マスターちゃん。おはよう」
煙草でも吸っていたのかと思ったが違った。一瞬だけ驚いた顔をして、すぐにいつもの笑顔で返してきた。タバティエールはゆっくりとこちらに近付いてくる。
「今日はバレンタインだろ? さっき、市場で見つけてさ。だから」
差し出されたのは、赤いバラ。
「バラ一輪きりで悪いが、貰ってくれるかい? ……感謝の印と思って、さ」
「っ、ありがとう!」
予想外のプレゼントに、思わず声が大きくなる。彼は、ん、とほんの少し笑いを含んだ声で、ぽんと頭に軽く触れて去って行った。時間的に、食堂へ向かったのだろう。
一人残されたマスターは、緩む口元を抑えることもできずしばらくそこに立ち尽くしていた。
誰も見ている人がいなくてよかった。顔が熱い。鼓動が速まる。
朝から彼の顔が見られて、しかもプレゼントまでして貰えるなんて思わなかった。
「お水、あげないとね」
食堂に向かう前に一度部屋に戻ろう。花瓶はないけれど何か入れ物はあったはずだ。
私室に戻ろうと森を抜けたところで、レジスタンスの友人と鉢合わせた。一緒にバレンタインのクッキーを作った仲間だ。
大事にバラを持っているマスターに、彼女はからかい混じりに訊ねてくる。
「嬉しそうね。どうしたのそれ」
「……好きな人がくれたの」
自然と口元がほころぶ。感謝の気持ちと言っていたけれど、好きな人が自分の為に選んでくれたものなら、なんだって嬉しいのだ。
彼女はぱちりと目を瞬かせ、それから微笑ましいものでも見つめるように目を細めた。
「あなたの想い人は随分情熱的な人なのね」
「えっ?」
予想外の言葉に思わず聞き返す。偶然買ってきてくれたもので、深い意味なんてないと思っていたのに。恋愛話に花を咲かせている時みたいな顔で、彼女は続ける。
「あら、知らないの? それって――」
*****
「タバティエール」
朝食時を過ぎたこの時間なら食堂の裏で煙草を吸っているだろう、と予想したけれどそれは当たっていたようだ。
「マスターちゃん。どうした?」
煙草を消そうとするのは申し訳ないから止めて、袋から包みを一つ取り出す。
「さっきはありがとう。これは、私からの感謝の気持ち」
昨日みんなで作ったクッキーの包み。タバティエールの名前が入れてあるものだ。
「え、マスターちゃんから? はは、ありがとな」
彼が差し出した包みを手にした瞬間、マスターはもう少し近付いて一言だけ告げた。
「……夜に私の部屋に来て」
言うだけ言って背を向け、逃げるように走り出した。
「えっ、ちょ、ちょっと、マスターちゃん!」
「あ、ドライゼ!」
呼び止める声は聞こえない振りをして、偶然通りかかったドライゼを追いかける。
話していればタバティエールはきっとこれ以上追ってこない。でも、部屋に来てくれるだろう、という確信はあった。
夜、夕食も済んだ後の時間、マスターは自室のベッドに座りタバティエールを待ち続けていた。途中で捕まったらきっと何か言われると思ったから、この時間までずっと彼のことは避けていたのだ。それでも貴銃士達にはマスターからの贈り物を渡していくという自分で課した任務はなんとかこなした。みんな喜んでくれていたと思う。それに、プレゼントを用意してくれていた貴銃士達もいっぱいいた。マスターとしては、良いバレンタインを過ごせたと思う。
けれど、まだバレンタインは終われない。
机の上には昨日からあるチョコレートの包みと、花瓶代わりの透明な瓶に入れた一輪のバラ。
緊張を落ち着かせようと深呼吸していたら、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
声を掛けると、周囲を伺いながらゆっくりと扉が開かれる。
中に入って扉を閉めると、タバティエールは困ったような顔で言ってきた。
「あのな、マスターちゃん。あんまり軽々しく男を部屋に呼ぶのは……」
窘められるのは承知の上だ。自分だってこんなことをする相手は選ぶ。というか、他の人なら言ったりしない。
「タバティエール、あの」
言葉を遮ると、これ以上の忠告は諦めたのか肩を竦められた。せっかく心配してくれたのに呆れたのかもしれないけれど、今はそれよりも大事なことがある。
「さっきのバラ、って」
「…………」
タバティエールは答えずに、静かな笑みを浮かべている。わずかな沈黙のあと、ぽつりと呟かれた言葉は、けれどしっかり耳に届いた。
「好きに受け取ってくれて、かまわない」
否定はされなかった。じゃぁ、タバティエールは最初から意味を知っていた?
だったら、伝えても良いのだろうか。
「ねぇ、タバティエール、これ……」
チョコレートの箱を差し出すと、彼は戸惑っているようだった。
「贈り物ならさっき貰っただろ?」
「あれはマスターとして、みんなへの感謝の気持ち」
じっと目を見て、本心を伝える。青灰の瞳に映るのは、緊張した自分の顔。
「これは、『私』から……『あなた』に」
ドキドキする。壊れそうなくらい、心臓が高鳴っている。
「だからもし、私の思い違いじゃなかったら、受け取ってほしい」
穏やかに細められた瞳。複雑な色を滲ませた表情と声は、それでも、優しくてどこか照れたようで。
「俺なんかでいいの?」
「タバティエールがいいの」
彼は箱を受け取ると、不意に引き寄せてきた。その胸に抱き留められて、一瞬息が詰まる。
「ありがとう、こんな日がくるなんて思わなかった」
彼の胸から聞こえる音は、自分と同じ速さを刻んでいて。
「マスター……いや、――ちゃん」
名前を呼ばれて、それから、愛の言葉を。私も、と心からの言葉を告げて。身体を離して顔を見合わせて、笑った。
愛の日は、残り数時間。恋人として過ごすその時間は、互いに忘れられない、甘い甘い記憶へと変わるのだ。
2019/02/21公開