それは出勤前に、病院近くのコンビニへ寄って買い物をした日のことだった。昼食用のパンを買い、会計を済ませて病院へ向かおうとして店を出たその時。向こうから、見慣れた人物が歩いてきた。
「ローレンツ先生」
 シンプルなシャツに、いつもの眼鏡。手には鞄と、書類が入っているらしいケース。
「あ、おはようございま……」
 声を掛けたらこちらに気づいたらしく、ぱっと笑顔で挨拶をしてくれた。まではいいのだが。
 駐車場部分の縁石に足を引っかけ、盛大に転倒した。その拍子に、ケースに入っていた書類がばさばさと音を立てて散らばっていく。
「あぁぁ先生! 大丈夫ですか!」
「はわわっ!」
 ローレンツ先生は慌てて書類を集め始めた。何枚か風に舞って遠くへ行きそうになったのを、必死に掴む。
 声を掛けたタイミングが悪かったかと、責任を感じつつ、鞄からはみ出した荷物をしまい、書類を拾うのを手伝うことにする。
「失くしたらシャスポー先生に怒られるっ!」
 青ざめた顔で告げるローレンツ先生が、なんだか不憫になってきた。
 救命救急科の研修医のローレンツ先生は、院内でもよくコードに足を引っかけたり、飲み物をこぼしたり、棚の荷物をぶちまけたり、なんてことをしている。決して悪い先生ではない、というか人柄は良いのだけれど、おっちょこちょいというか、なんというか……頑張ってはいるのだけれど、よく色々なところで空回りをしているというか……シャスポー先生に怒られている姿をよく見かける。
 これでも患者を危険に晒したことはないのだから、ある意味すごいと思ってしまう。
 運が悪いことに、ちょうど強い風が吹き抜けていったものだから、書類は駐車場のあちこちに散らばってしまった。幸い道路にまで飛んでいったものはなさそうだけれど、土埃で汚れてしまったものはあるだろう。
 遠くに飛んだ一枚を拾おうと歩き出した、そのとき。
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
 女の子の叫ぶ声が聞こえた。
「えっ」
 慌てて顔を上げて声の方を探してみると、コンビニの敷地の入り口あたりに倒れ伏している女性と、側で必死に呼びかけている、まだ十歳にもならないだろう女の子の姿。
 ローレンツ先生の方を伺うと、真剣な面もちで頷き、二人の側へ駆け寄った。
「あぁ、待って、揺すったらダメです!」
 肩を掴んで揺さぶろうとした少女の手をそっと止め、首を振る。
「俺、これでも医者だから、大丈夫です!」
 ローレンツ先生は少女を安心させるように微笑みかけ、倒れた女性の状態を診始めた。
 肩を叩いて声をかけ、呼吸と脈を確かめる。けれど先生の表情が一瞬険しくなった。
「AED、あと救急車を!」
 叫ぶような声に、コンビニの店内へと走る。病院近くの大型店舗、AEDは設置しているはずだ。見た覚えがある。
 店員にAEDを借りる旨と、それから急いで救急車を呼んでもらうように伝える。自分はローレンツ先生の補助に入らなければ。
 外に出て、AEDをローレンツ先生に渡す。騒ぎに気づいた人がちらほら集まり始め、様子をうかがっていた。
 突然の事態に動揺し、泣きだした少女をなだめながら、声をかける。
「お母さんに電話はできる?」
 そう訪ねれば、頷いて、倒れた祖母の荷物から携帯電話を取り出した。
 これでご家族への連絡は大丈夫だろう。あとは救急車が到着するまで、処置を行わなければいけない。
 心肺停止状態の患者は、救命救急科にいれば対応にあたることも珍しくはない。けれど、今ここには、シャスポー先生もドライゼ先生もタバティエール先生も、先輩の看護師もいない。
 冷たい汗が流れる。ローレンツ先生と私だけで、この状況を?
 不安に胸が押しつぶされそうになる。
 女性の体位をそっと仰向けに変え、作業スペースを確保し、AEDを起動する。
 救急車が到着するまでは、まだかかる。
 電話を終えた少女は、ぽろぽろと涙を零し、ぎゅっと自分の手を握りしめている。
 助けなきゃ。その気持ちは、私だけじゃない。絶対に。ローレンツ先生の横顔に、いつもの不安そうな色は一つもなかった。

 

 数分後、救急車が到着し、処置を交代する。一応呼吸と脈は戻ったが、まだ油断できないし、病院で詳しい検査が必要だろう。コンビニの店員に少女を任せ、母親と一緒に病院へ来るように伝えて、ローレンツ先生と共に救急車に乗り込んだ。家族が付き添った方が良いのだろうけれど、少女の母親がいつ到着するか分からないのと、子供一人を乗せていくよりは母親と一緒に来て貰った方がいいだろうと判断した。それに、自分たちがこのまま一緒に行けば、引継もスムーズに行える。
 隊員と情報交換をしながら、病院までの数分。受け入れ口には、シャスポー先生とドライゼ先生が待ちかまえていた。
 処置室までの間、経緯を説明する。そして部屋に入るところで、
「あとは任せろ」
 手短にそれだけを言って、二人の先生は患者と共に去ってしまった。
 その背中を見送ったあと、ローレンツ先生はぺたりと床に座り込んでしまった。
「せ、先生大丈夫ですか?」
「怖かった……」
 慌てて駆け寄ると、ローレンツ先生は震える声でつぶやいた。
「俺一人で、助けられなかったらどうしようかって不安で……って、こんなこと言ってたらまた怒られそうだけど……」
 処置に当たっている時は、あんなに力強く見えたのに、今はいつものローレンツ先生だ。というと失礼かもしれないが。
 とりあえず私服のままなのでロッカーに着替えに行き、スタッフルームへと入る。しばらくして、処置を終えた先生たちが戻ってきた。
「しばらく入院は必要が、窮地は脱しただろう」
 その言葉に、改めて安堵の吐息が零れた。
「よかったぁ」
 胸を撫でおろすローレンツ先生に、腕組みしたシャスポー先生が告げる。
「研修医にしてはよくやったじゃないか」
「あぁ、お前達がいなかったら、最悪の事態もありえた」
 それから、ドライゼ先生も。
 少し照れくさそうに笑うローレンツ先生。けれど、次の瞬間。
「あーーっ!」
 突然の叫び声に、びく、と肩が跳ねた。
「なんだいきなり、大声を出すな!」
 さすがに二人も驚いたのだろう。シャスポー先生は顔をしかめ、ドライゼ先生も動揺に目を見開いている。
「お、俺、シャスポー先生から貰った資料……」
「は?」
 そういえば、ローレンツ先生が落とした紙束を拾い集めている途中だった。そのまま救急車に乗ってしまったから、何枚かはおいてきてしまったはずだ。というか、結構時間が経っているし、残っているかは怪しい。
「ど、どうしよう……」
 青い顔で震えるローレンツ先生に代わり、女性が倒れる前の経緯を説明する。自分にも原因の一端がある気がして、一緒に謝ろうかと思っていたのだが。
「そんなの、また印刷すれば済む話だろう。いちいち騒ぐな」
「……人命より優先されるものなんてないさ、シャスポーもそれは分かっている。よくやった、ローレンツ。そして君も」
 ドライゼ先生がフォローすると、シャスポー先生の顔は瞬時に不機嫌そうになった。
「お前はそうやってまわりから良く思われようと……大体お前のそういうところが……」
 ぶちぶちと嫌味を言い始めたシャスポー先生から、ドライゼ先生は視線をそらした。その口元はわずかに引きつっている。今日はタバティエール先生は休みだから、仲裁してくれる人は誰もいないのだ。もちろん、私なんかにはこうなったシャスポー先生を止めることなんてできない。
「あのっ、俺!」
 と、割って入ったのはローレンツ先生だった。
「これからも頑張りますから!」
「当たり前だろう。覚えることはまだまだたくさんあるんだからな」
 これは、シャスポー先生なりに今回のことを認めているんだろう。きっと。先生は分かりにくいけれど、それでもほんの少し、表情が優しい……ような気がする。
「はい、頑張ります!」
 なにより、嬉しそうなローレンツ先生の表情が。きっとすべての、答えなのだ。

 2019/10/13公開

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