タバティエール先生は、救命救急科の中でも年長の医師だ。
 シャスポー先生やドライゼ先生を前に、『俺はあいつらみたいに優秀じゃないから、サポート役くらいがちょうど良いのさ』なんて言ってはいるけれど、本人だって相当な実力者だというのは、見ていて分かる。人当たりもよく、他の科の先生や看護師達にも頼りにされることが多い。
 医師としての仕事はもちろん、患者やその家族とトラブルがあったときの対応や、ドライゼ先生とシャスポー先生の揉め事の仲裁、ローレンツ先生のミスの後始末等々。なんだかんだと忙しそうにしているが、それでもいつも笑顔でいる。
 しかし、そんなタバティエール先生の表情が、今日は暗く沈んでいた。椅子にぐったりと沈み込んでいる。
「先生、大丈夫ですか?」
「あー、だいじょぶ、大丈夫……」
 へにゃ、と力なく笑みを浮かべるけれど、目の下にクマはできているわ、髪や服も心なしか乱れているわ、普段の紳士的な色男、という姿は見る影もない。
 それでも、少しくたびれたこの風貌も様になっているというか、それはそれで女性の目を引きそうではあるが。
「心配かけて悪いな。さすがにちっとばかり疲れたわ……」
 連勤日数も相当続いていて、しかもハードな日が多かった。今日もすでに、重症患者の立て続けの搬送。患者家族からのクレーム対応、とこなしていたはずだ。
「まぁ、今日が終われば明日は休みだから」
 ごそごそとポケットを探り、判子を取り出す。それを見てしばらく固まったのち。
「あー……」
 小さく唸って、深い溜息を吐いた。
 その意味が分からず怪訝に思っていると、
「お前が一番重症だな」
 シャスポー先生が呆れたように肩を竦めた。
「ここは禁煙だぞ」
「いや、持ってきてねぇよ。けど、なんか、無意識に……」
 なるほど、つまり、疲れのあまり入っていないはずの煙草を取り出そうとして、判子を取り出してしまった、と。
「タバティエール先生、煙草吸うんですか」
「勤務中は吸わねぇがな」
 今は色々うるさいから……と苦笑いをしている。
「いい加減やめればいいのに」
「そう言うなよ」
 これだけ疲れる事態が続けば、煙草の一本も吸いたくなるのだろう。自分は吸ったことがないから分からないけれど。
「今日は残業しないでさっさと帰れよ」
「買い物しないと冷蔵庫も空だしなぁ。何もなければそうするわ」
 昼食で院内の食堂に行けるのはまだ良い方で、コンビニや購買で買ったものばかり。夜も遅くまで仕事をしていれば、外食か買ったものばかり。
 独り身で激務だと、食生活も崩れがちになる。医者の不養生、とはよくいったものだ。
 定時までは残り一時間ほど。これ以上何も起きませんように、と願いながら、スタッフルームを出た。

 結論からいえば、一人だけ搬送の患者が来た。けれど、重症でもないし一人でもなんとかなる、とシャスポー先生が言うので―ドライゼ先生もいたのだが、二人でとは言いたくなかったらしい―タバティエール先生は時間通りに、半ば追い出されるような感じで帰っていった。

 そして二日後。
 出勤して目を引いたのは、スタッフルームの机にあるクッキー缶だった。封はされていない。そして横には、いくつかの箱。
「どうしたんですか、これ」
 珈琲を飲みながら話していたタバティエール先生とドライゼ先生に聞いてみる。
 どこかの土産だろうか。それにしても量がすごい。
「あぁ、いや、調子にのって作りすぎちまって」
「先生が作ったんですか?」
 驚いてつい顔をまじまじと見てしまう。先生にそんな趣味があったなんて知らなかった。
「趣味程度だけどな。よかったら食べてくれ」
 その言葉に甘えて、クッキーを一つ頂く。型抜きされたシンプルなバタークッキーは、売り物のように綺麗な形で。
「美味しい……」
 一口かじれば、さくっと軽快な音を立てて口の中でほろりと解けた。ふわりと漂うバターの香りと、程良い甘み。
「え、売り物レベルじゃないですか」
 趣味程度、なんて謙遜していたが、洋菓子店に置いてあってもおかしくないクオリティだ。パティシエとしてもやっていけたんじゃないだろうか、なんて思う。
「ずいぶん大量だな」
 部屋に入ってきたシャスポー先生が眉を顰める。ローレンツ先生は、「わー、すごいですね!」と目を輝かせていた。
「フィナンシェはないのか」
「へいへい用意してますよシャスポー様」
 そう言いながら、小さい箱を開けた。中にはきつね色にこんがり焼けたフィナンシェが。
 さらに別の箱からはチョコレートや紅茶のマフィン。よく見れば、椅子においてある紙袋にも、まだまだ中身が入っていそうだった。
 もしかして、休日の一日中、お菓子を作っていたのだろうか。
「シャルル先生たちにも届けてくるか」
 そう告げるタバティエール先生の顔は、心から楽しそうで。鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌な彼の背中を見送ると、ローレンツ先生が小声で話しかけてきた。
「タバティエール先生、ストレスが溜まるとこうやって大量に料理してくるんです」
 趣味に没頭してストレス解消。なるほど、それは理解できる。
「でも、こんな量は初めて見ました……」
 確かに、休み前のぐったりした様子はすっかり消えていたけれど。
「ふん、お前が負担をかけるからだろう研修医」
 ローレンツ先生の内緒話はしっかり聞こえていたらしい。フィナンシェを食べていたシャスポー先生が、とげのある言葉をとばしてきた。
「はわわわ、すみません~」
 ローレンツ先生は情けない声を出して、頭を下げた。
 ……心労の一因というのなら、シャスポー先生も……などと、頭では思ったが余計なことは言わないでおく。シャスポー先生はちらりとこちらを見て、告げた。
「君も遠慮しないでもっと食べてくれ。こんなに大量じゃ食べきるのも大変そうだからな。あぁ、もちろん、今じゃなくてもかまわない」
 そう言いながら、今度はマフィンに手を伸ばしていた。朝食代わりなのだろうか。見ているだけでも美味しそうなのが伝わる。
 自分はしっかり家で朝食をとってきたので、続きはまた後で頂くことにして。
 昼の楽しみに胸を躍らせつつ、もう少し、先生の負担を減らせるように手伝おう、と決意を新たにするのだった。

 2019/10/13公開

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