「今日からこちらに配属になりました。よろしくお願いします」
 看護師としてはまだまだ新米の域をでない自分が、救命救急科に行くことになり。不安と緊張の中、わずかに震える声で挨拶をして頭を下げる。
「あぁ、ドライゼだ。よろしく」
 長身と筋肉質な体躯、見下ろす鋭い眼光、鼓膜を震わせる低い声。
 無表情にそれだけを告げて、彼は去ってしまった。
「あー、っと、俺はタバティエール」
「研修医のローレンツです!」
 ドライゼ先生が去った方をちらりと見やり、それから少し困ったような顔で告げてきたのは、彼とは逆に愛想の良い笑顔を浮かべた先生だった。そして年若い、眼鏡の先生。
「あと、今日は休みだけどもう一人シャスポー先生がいるから、また会った時にでも」
 その後はローレンツ先生と、先輩看護師に色々と必要事項を教わることになったのだが。このときの自分は、完全に竦み上がってしまっていた。
 ドライゼ先生の第一印象は、「怖い人」だった。

 

 救命救急科という場所柄、厳しい表情も多くなるだろうことは理解できる。患者は絶えることなく入ってくるし、命に関わるような重症であることも多い。常に緊張の走る場で、ぴりぴりすることもあるだろう。
 けれど、タバティエール先生やローレンツ先生は、休憩室などでは笑顔を見せてくれる方が多いし、優しい。けれどドライゼ先生はあまり笑わないというか、眉間にしわを寄せて医療雑誌やらレポートに目を通していることが多い。
 それになにより、ドライゼ先生はシャスポー先生と並んで優秀な救命医らしいのだが、よく言い争いになっているのを見かける。
 処置に入れば指示は的確、手際もよく、正確だ。技術面でも申し分ない、尊敬できる医師だ。
 それでも、やっぱり怖い人なんだ、と近寄りがたい雰囲気を感じてしまう。ミスをしたら怒鳴られるのではないか、という不安と恐怖。
 彼に厳しく叱責されたら泣いてしまいそうだ。

 そう思っていた矢先。配属されてから一週間も経たないうちのことだった。
「あぁー、もう、どうして」
 スタッフルームのパソコンの前で、私は頭を抱えていた。
 ピーピーとパソコンからエラー音が鳴る。画面には見慣れない英文字。キーボードを叩いてみれば、また、ピーピーと同じように鳴るエラー音。
 印刷したい用紙があったのでパソコンを起動したら、これだ。
 正直、パソコンのことは何も分からない、起動、終了、必要なデータを印刷、簡単な書類や表の作成、くらいは習ったが、異変が起きた時の対処法なんて知らない。
 どうしよう、まさか壊してしまったんじゃ。
 焦る気持ちで泣きそうになっていると。
「どうした」
 声に振り向くと、そこに立っていたのはドライゼ先生だった。
「すっ、すみません! パソコンが、動かなくなってしまって……」
 思わず椅子から立ち上がって頭を下げると、ドライゼ先生は画面に目を向けた。
「ん? あぁ」
 それからカチカチと何やら操作し、数秒後。
「あ、直った……」
 正常に起動された画面が映っていた。
「前に使った時にちゃんと終了されていなかったんだろう。またローレンツ先生がコードに足を引っかけて強制終了でもしたか……」
 原因を探っているらしい先生に、そういえばまだお礼も言っていなかったと気づき、もう一度頭を下げる。
「あのっ、ありがとうございました!」
「なに、大したことはしていない」
「壊してしまったかと思って焦ってました……」
「壊れてはいない。よくあるエラー画面だ」
 こんなことも分からないのか、と言われた気がしてまた頭を下げる。
「ごめんなさい、パソコンには詳しくなくて」
「いや、普通はそうそう起きないか。しかし、そうだな」
 先生はあごに手を当て、何やら考え込んでいる。
「……ふむ」
 しばしの沈黙。声も掛けられず、その横顔をただ見上げる。
 大して時間は経っていないだろうに、とてつもなく長く感じられた。やがて、遠くからローレンツ先生の声が聞こえた。
「ドライゼ先生ー!」
「あぁ、今行く」
 そうしてドライゼ先生は、行ってしまった。
 いなくなって、緊張から解かれた私はほっと椅子に座り込む。怒られるかと思ったけれど、無事に済んだようだ。
 目の前にはパソコンの青い壁紙の画面。そう、印刷をするんだった。気を取り直して、作業に戻った。

 そして翌日。
「あれ?」
 見慣れないものがパソコンの横に置いてあった。
 それはきっちりとファイリングされた、手製らしいマニュアルだった。
 パラパラとめくってみると、エラーなどトラブルが起きた時の対処法がいくつも記されている。
 昨日と同じ画面が出た場合の対処法も載っていた。
 これは。まさか。
「おはよう」
 低い声に、振り返る。そこには予想通りドライゼ先生の姿。珈琲を買ってきた所らしい、片手に缶を持っている。
「おはようございます」
 私は手にしたマニュアルに目を落とし、意を決して訪ねてみた。
「あのこれ、ドライゼ先生が作ったのですか?」
「あぁ、そうだ。急いで作ったから、まだ足りない部分もあると思うが」
 昨日いる間に、ドライゼ先生はパソコン前に座っていなかった。ということは、わざわざ家で作ってきてくれたのだ。
「パソコンに詳しくないスタッフもいるということを、考えもしなかったからな。もっと多くの人が働きやすくなるように配慮すべきだった」
「いえっ、そんな、ありがとうございます! 助かります」
 マニュアルを抱えたまま頭を下げると、ドライゼ先生は珈琲を一口飲んで、
「そうか」
 と、短く告げた。けれど、その口元は、確かに微笑んでいて。
「また何か分からないことがあったら、遠慮なく聞いてくれ」
 そうして残りの珈琲を飲み干して、去ってしまった。
 その背中が去った方をしばらく見つめていると。
「どうした?」
 と、タバティエール先生が声をかけてきた。隣にはローレンツ先生もいる。
 思わず、思ったままの言葉が口から飛び出す。
「ドライゼ先生、笑うんですね」
 タバティエール先生が、小さく噴きだす。
「そりゃあいつだって笑うことくらいあるだろ」
 それはそうなのだろうが、少なくとも見たことはなかった。
「なんていうか、もっと、怖い人なのかと思ってました」
「それ、気にしてるから本人には言うなよ」
 タバティエール先生は苦笑する。
「だって、シャスポー先生とよく喧嘩してますし」
「あれは喧嘩っつーか……」
 シャスポーが一方的に絡んでるっつーか……、と、タバティエール先生は視線を反らして頭を掻く。
「でもわかります。俺も最初は怖すぎて泣きそうでした」
「ドライゼ先生はほら、愛想がいいわけでもないし、見た目とか声で威圧感があるかもしれねぇが……真面目で努力家で、常に患者のことを真剣に考えてるし、他のスタッフのことも大事に想ってるような奴だよ」
「そうですね。これを見れば、わかります。私、誤解してました」
「あぁ、そうだ。ドライゼ先生を褒めてたって、シャスポー先生には黙っててくれよ。またあいつ絡んでいくからなぁ」
 困ったもんだ、と告げる言葉とは裏腹に、タバティエール先生はどこか楽しそうで。
 今日も一日、頑張ろう。と、温かい気持ちで一日の始まりを迎えたのだった。

 2019/10/13公開

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