ガタン、ゴトンと不規則な音が耳に届き、そのたびに小さな揺れを体に感じる。大きな窓の外にはゆるやかに流れていく景色。出発した時には紺青に塗りつぶされていた夜空が、だんだんと昇っていく太陽に色を溶かされ、朝と夜の境目に綺麗なグラデーションを描いていった。あと少ししたら、完全に太陽に塗りつぶされて、外は明るい街を映し出すのだろう。
 朝日が昇るのを見たことはあるけれど、今日、この窓ガラス越しの景色は格段に美しく見えた。
 ちらりと、外の風景よりも手前の、ガラスに映る横顔を見る。
 正面の座席に座っている彼は、朝早くからの外出でまだ眠いのか、頬杖をついて少しぼんやりしている。整った容姿の青年は、こんな時だって見惚れるくらい素敵だ。
 思わず目を奪われていると、外に向けられていた彼の視線が、不意にこちらを捕らえた。
「どうしたの、マスター」
 柔らかな笑みと、穏やかな声。それが自分に向けられて、じっと見つめていたことに気づかれて、つい恥ずかしくなってしまう。
「ううん、なんでもないわ、シャスポー」
 彼……シャスポーはふ、と口元をゆるめた。
「そう?」
 ガラス越しでなく直接、ブルーグレーの瞳が自分の顔を映している。
「そうよ」
 マスターと呼ばれた少女もまた、花のようにふわりと微笑んだ。

 世界帝軍に立ち向かう、レジスタンスのメディック。そして、奇跡の力をもって貴銃士という存在を呼び起こし、彼らを束ねる『マスター』と呼ばれる存在。レジスタンスの切り札であり、世界の希望。それがこの少女だった。
 そして目の前にいる青年は、彼女が呼び出した貴銃士の一人だ。マスターと、マスターを守る貴銃士という関係ではあるけれど、この二人の関係はそれだけではない。
 二人の間に流れる甘い雰囲気を見れば、恋人か、年若い夫婦か、と誰しも思うだろう。実際この二人は、互いに愛し合う関係であった。
 シャスポーは普段基地で過ごすようなラフな格好でも軍服でもなく、少しだけよそ行きの私服で、マスターもフリルやリボンなどの装飾がついたワンピースを身につけている。命がけの戦いの最中に身を置くようには思えないほど、ごく普通の、どこにでもいるような若い男女。
 今日一日だけ。
 一年に一度、特別な今日だけは。

 

「マスターは、何が欲しい?」
 シャスポーにそう訊かれたのは、半月ほど前のことだった。
「欲しいもの?」
 衛生室で仕事をしていたマスターは、突然の質問にぱちりと目を瞬かせ、シャスポーの顔をじっと見つめた。
「もうすぐ、君の誕生日だって聞いたから」
 誕生日。言われて思い出す。正直なところ、全く頭になかった。
 シャスポーが自分に誕生日プレゼントを考えてくれている。それはとても嬉しい。だから、何が欲しいかと考えてみるけれど、ピンとくる物はなかった。
 レジスタンスも資金が潤沢というわけではないから、生活は質素だ。年頃の娘なら、綺麗な洋服やアクセサリーなんかを欲しがるのかもしれないけれど、自分も欲しいかと問われればそれも違う。興味がないとか好きじゃないということではないけれど、今のままで困るほどではないし、わざわざプレゼントにねだるのもと思ってしまう。では他に何かあるか、と必死に頭を回転させるけれど、どうしても思いつかない。しまいには、今不足している薬品や包帯なんて仕事道具まで浮かんでしまって、さすがにそれは意図するところと違うわ、と慌てて首を振る始末だった。
 それくらい本当に、浮かばないのだ。
「貴方のその気持ちだけで十分よ。私は貴方から……みんなにも、数え切れないくらい色々なものを貰っているわ」
「でも」
 それでは気が済まないのか、なおも食い下がろうとするシャスポーにマスターは少し困ったように眉根を寄せた。
 望むものなんてないのだ。
 私は、シャスポーと一緒にいられたらそれで……。
「……」
 浮かんだ言葉に、マスターは口元に手を当ててしばし考え込んだ。
 これもプレゼントとして有りなのだったら、シャスポーも納得してくれるのではないか、と。
「物、じゃないのだけど……一つだけ、わがままを言ってもいいかしら」
「もちろんだよマスター。僕にできることならなんだってするよ」
 シャスポーはちぎれんばかりにしっぽを振る犬のような勢いで、マスターの手を握ってきた。キラキラと瞳を輝かせて、シャスポーはマスターの次の言葉を待っているのだった。

 

 そうして、マスターの誕生日である今日、その『お願い』はプレゼントとして聞き届けられて、今に至る。
 目的地まではまだ少し。到着する頃には街も活動を始める時間になるだろう。
 レジスタンスの基地がある所から、列車に乗って少し離れた街へ。
 二人を知っている人はほとんどいないだろうこの街で、一日だけ、マスターと貴銃士ではなくただの恋人として、デートする。それが目的だった。
 多少は大きいし綺麗な街並みだが、有名な観光所や特別な何かがあるわけでもない。もっとも、世界帝軍の目があちこちにある今は、有名所は世界帝軍の監視の目が行き届いているし、マーケットや祭りなどの催しも許可されたものしかできないのだけれど。
 ごく普通の、平凡な街をわざわざ選んだのは、争いごとを避けて、ただ平穏な日を過ごしたかったからだ。
 それでもシャスポーは色々と下調べをしてくれていたようで、マスターは、シャスポーにエスコートされ、カフェへと来ていた。
 天気も良いのでテラス席で、焼きたてのパンと珈琲を頂く。
「どうかな、マスター」
「おいしい」
 目を覚ますような爽やかな香りの珈琲に、砂糖とミルクをたっぷり入れて、味わいながら少しずつ飲む。
 シャスポーは砂糖もミルクも少しずつしか入れていなくて、元は同じ珈琲なのにまったく別の色をしている。
「苦くないの?」
「パンの甘みがあるからちょうどいいくらいだよ」
 訊ねてみれば、シャスポーは柔らかく笑んでまた珈琲を一口飲んだ。
 バターたっぷりのクロワッサンは、外側は香ばしい焼き色で、中はふわふわと解けるような柔らかさだ。生地に甘みがあって、噛む度にバターの風味がとろけていく。
 近くの街にもパンは売っているし、基地の朝食でも出ることは多いけれど、こんなに美味しいパンは滅多に食べられない。
 やはり人気がある店なのだろう、少しずつ、席にも人が増えてきた。大きな袋を抱えて帰って行く人たちもいる。
 そんな人々の笑顔を眺めながら、二人はゆっくりと穏やかな朝食を楽しんだ。

 朝食の後は手をつないで、街を散歩した。誰も知らないこの街では、二人を気にかける者もいない。ただ、時折、仲のいい恋人達を微笑ましく見守る目があるだけだ。
 気になる店を覗いて、また別の店へと移って、人々の行き交う賑やかな通りを進んでいった。
 いっぱい歩いて、少し疲れてきた時には、お店でレモネードを買って二人で公園に寄った。甘く爽やかなレモネードで喉を潤しながら、緑の豊かな公園で、他愛ない会話を楽しんだ。
 公園で遊んでいる犬が可愛いとか、鳴いている鳥は何だろう、とか。
 降り注ぐ日差しは柔らかく、吹き抜ける風は穏やかに、そっと髪を揺らしていく。
 レモネードが空になっても、影の位置が変わるまで、公園のベンチで座って話した。それからまたのんびり歩いて、シャスポーが調べてきた店ではなく、近くでクレープが売っているのを見つけて、少し遅めの昼食をとることにした。甘いものではなく、野菜やハムや卵の入った食事向けのクレープを二種類選んで買う。
 食べ歩きなんて普段はしないシャスポーも、今日は一緒につきあってくれた。互いの選んだものを、一口交換して、美味しい、って笑いあって。
 食べ終わったら手をつないで、また街中を歩き出した。さっきと違う店を覗いて、歩いて、歩いて、空が夕焼けに染まるまでそうしていた。
 陽が落ちる前に、シャスポーは小さなレストランへと連れて行ってくれた。彼の祖国、フランスの料理を出すビストロ。堅苦しいコース料理ではなく、気軽に郷土料理を味わえる店だ。
 以前料理の話になったときに、食べてみたいと言ったのを覚えていてくれたのだろうか。
 気になるメニューは多かったけれど、シャスポーが勧めてくれたものを選んで、それから食後には小さなケーキで二人だけのお祝いをした。
 夕食をとったら、陽は完全に落ちていた。もう帰る時間だ。
 楽しい時というのは、どうしてこうも速く過ぎ去ってしまうのだろう。

 

 マスターは後ろ髪をひかれる思いで電車に乗り込み、しばし無言のまま、夜闇に浮かぶ明かりが過ぎ去っていくのを見つめていた。
 この列車が着いたら、歩いて基地まで戻る。日が変わる前にはたどり着くだろう。
 あと数時間。二人きりで、こうしていられる残り時間。
「……まだ、帰りたくない……、わ……」
 マスターはぽつりと呟き、はっと我に返った。
 無意識に口からこぼれ落ちてしまった言葉が、どういう意味を持つのか。自分で理解して、瞬時に顔が赤くなる。
 シャスポーの方を見てみれば、しっかりとその言葉は聞き取られていたらしい。少し驚いたような、戸惑いを含んだような表情で、こちらを見ていた。
「ち、違うの、そういう意味じゃなくて……その……」
 全く違うのかと言われたら、そうとも言い切れないのが正直な所だけれど、だって、だってそんなことを言うのはあまりにも。
「大丈夫、分かってるよマスター」
 くすくすと笑いながら、そっと手を握ってくる。
「僕も同じ気持ちだから」
 その言葉と微笑みに、安堵する。同じ気持ちでいてくれるというだけで、胸を温かいものが満たしていく。
「でも、『プレゼントは僕との時間が欲しい』なんて……本当にこれだけで良かったの? やっぱり何か、身につけるものでも買ってくれば良かったかな」
 街にいる間、シャスポーに誘われるまま洋服やアクセサリー、雑貨など、色々な店を覗いたけれど、結局何も買うことはなかった。欲しいものがなかった、というよりは見ているだけでも楽しくて、十分満足してしまったのだ。それになにより、何にも縛られずに手を繋いでいたかったから。
「ううん、今日一日、本当に楽しかったもの。最高のプレゼントよ」
 そう言って微笑むマスターに、シャスポーは少し困ったような顔で告げた。
「……マスターは欲がないね。もっといっぱい、わがままを言ってくれてもいいのに」
 君のそんなところも愛しいけれど。と付け加えられてどくんと心臓が跳ねた。
(でも、私は)
 きっとシャスポーが思うより、ずっとわがままだ。
 だって、次の誕生日も、その次の誕生日も、その先も。私がおばあちゃんになるまで、特別な日を貴方と一緒に過ごせたら、なんて。
 ううん、誕生日だけじゃなくて、もっともっと、いろいろな時間を、貴方と共有できたら、と思う。
「はぁ、日付が変わる最後の瞬間まで、君を独占していたかったけれど」
 忙しい中で、なんとか一日だけ空けてもらった時間だ。日が変わるまでに戻ってくるのを条件に、武器も持たず護衛もつけず、二人きりでの外出を許可されたのだ。その約束を違えるわけにはいかない。
「泊まりは……またの機会に、ね」
 耳元で甘く囁かれた言葉に、顔から火がでたかのように熱くなる。
「も、もう……シャスポー」
 マスターの反応に気を良くしてか、シャスポーは笑った。
「ねぇ、マスター」
 シャスポーの手が、さらりとマスターの髪を梳く。
 髪を梳いていた手が、後頭部へと回される。大きな手が、そっと優しく引き寄せて、そして。重なる唇。その柔らかな感触は確かに触れて、すぐに離れた。額がふれそうなほどの近い距離で、シャスポーは優しく囁く。
「来年もまた、二人で過ごせたら良いね」
「えぇ、そうね。……私の、シャスポー」
 来年も、再来年も、その先も。願わくば、ずっと、ずっと、貴方の隣で。

 2019/10/13公開

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