空が夕の赤から夜の青へとグラデーションを描き始めた頃。タバティエールとマスターの二人は基地への道を急いでいた。少し離れた街にいるレジスタンスのシンパの元へ二人で交渉に赴いていたので、途中までは馬車を使ったのだが残りは徒歩で帰らなければならない。
 残り一時間程度の道は、普段ならばそんなに苦でもないのだが、今日はいつもとは少し違っていた。
「風が強くなってきたわね」
「こりゃ荒れるかねぇ……」
 乱れた髪を掻き上げ、タバティエールは眉を顰めた。軍服をきっちり着込んでいるから、外套が風に煽られてはためく。
 今のところ雨が降りそうには見えないが、風の勢いはさっきから強まる一方だ。ごうごうと激しい音と共に、土埃を舞い上げていく。
 不意に、隣を歩いていたマスターが足を止めた。
「マスターちゃん、どうした?」
 タバティエールはすぐに彼女を振り返った。何かあったのだろうかと心配になり、傍による。きつく目を閉じて身を竦めていた彼女の小さな身体は、向かい風に煽られてふらりと揺れた。
「きゃっ」
 小さな悲鳴。それから、腰に回された細い腕。
「……!」
「ごめんなさい、……っ」
 マスターは慌てて手を離そうとするけれど、そのまま倒れてしまいそうで離せないらしい。余計に強くしがみつかれた。タバティエールは彼女の肩に触れ、風下の方へとそっと移動させる。
「悪い、気付かなくて」
 それから彼女の前に跪き、失礼、と小さく告げて彼女の背と膝の裏へ腕を伸ばした。
「あっ」
「しっかり掴まっててくれ」
 タバティエールはマスターの身体を抱き上げて、基地までの道を急いだ。

 

   *****

 

 ふわふわ、身体が揺れる。マスターはタバティエールの首に腕をまわして、彼の胸に身を預けていた。彼の厚意に甘えてしまっているけれど、こんな風に運ばれるのは落ち着かない。それに、彼も体力はある方だろうけれど、まだ相当距離があるのに疲れてしまわないだろうか、と心配にはなった。だがそれは杞憂だったらしい。
 足を止めることもなく、落としそうになったりすることも決してなく。自分の身体を支える彼の腕は、こんなにも力強かったのかと改めて感心する。
 普段基地にいると、料理や掃除をしていたり、人に細やかな気遣いをしていたり、優しく繊細な部分が映ることが多いからつい忘れてしまうけれど。彼は元々軍用銃だし、人にあまり見せないだけで陰では鍛錬を怠ったりもしないのだ。
 近い距離で感じる、汗と煙草の混ざった……彼の、におい。心を落ち着かせるような、それでいて胸をざわつかせるような、相反する感覚を呼び起こす。
 聞こえるのは吹き荒ぶ風の音と、外套がはためく音。それから時折零れ落ちる彼の吐息。
 指先から伝わる温度。彼の優しい熱。
 意識してしまえば、自分の心拍数が上がっていくのをはっきり感じ取っていた。
 ちらりと彼の横顔を伺うと、真っ直ぐに前を見ていて、けれどその頬は少し、赤いような……。
 それはまだかすかに残る夕陽のせいなのか、それとも。
 まわす腕にもう少しだけ力をこめる。そうすると、自分を抱きあげる腕にも同じ力が返されて。
 胸の奥に灯がともったように温かくなる。基地に着くまで。あと少しだけ。この熱に甘えていたい。

 

 宿舎を入った所で、マスターはようやく床に下ろされた。衛生室の明かりも消えていたし、この強風で外に出ている人もいないようだったので、直接宿舎へと戻ってきたのだ。
「体、痛くなってないか?」
「大丈夫よ。ありがとう、タバティエール」
「あぁ、うん」
 タバティエールは手で口元を隠すようにして、視線を逸らしたまま曖昧な返事をする。 やっぱり顔が赤いのは、照れているのだろう。じっと見上げていると目が合って、ほんの少し困ったような顔で笑う。
 この建物にはみんないるのだから、いつ誰が来るのか分からないし、それに恭遠に報告もしなければいけない。
 なのに、なんだか離れがたくて、入り口で立ち止まったままどれほど経ったのだろうか。長いような、短いような、時間の感覚さえ分からなくなる。
 やがて肩に触れた手に、マスターは小さく頷いて歩き出した。ゆっくり、ゆっくりと自分の歩幅に合わせて、彼は隣に並んで歩いてくれる。
 そのことに深い安堵を感じながら、二人は恭遠のいる部屋へと向かった。

 

 2019/02/27公開

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