魔法使い達の宿舎にある一室、北の魔法使いミスラが使用しているこの部屋は、夜だということを差し引いても他の人たちの部屋よりも薄暗い。呪術に使うという剥製や骨などの飾られた、妖しげにも感じられる部屋の中で、しかしベッドの周辺だけは雰囲気が違っていた。可愛くて柔らかな抱き枕や香りの良いサシェ、ふかふかの布団に彩られた、居心地の良い空間だった。
 賢者と呼ばれる少女はそこで、部屋の持ち主であるミスラと共に、ベッドに横たわっていた。抱き寄せられる格好で、片手はつないでいる。
 大いなる厄災の傷のせいで眠れなくなったミスラを眠らせるために、賢者は以前から時折部屋を訪れていた。最初は手を握っているだけだったのに、それがいつの間にか抱き枕のようにベッドに引きずり込まれ、なんだかんだあって恋人同士となった今は、眠らせるためという理由だけでなく、こうして隣にいることが増えた。
 燃えるような赤い色の髪に手を伸ばして、子供にするみたいに撫でてやれば、ミスラはどこか不満げな顔をしながらも何も言わず受け入れている。
「はぁ、眠れそうにありませんね」
「私の方が先に寝そうです」
 寝心地の良い布団に、安らぐ香り。それから心地よい体温に包まれてじっとしていると、どうにも眠気が襲ってくる。
「いつものことですけど」
 眠れないミスラの前で自分だけぐっすり眠ってしまうと、最初はとげとげしい嫌味をよこされたけれど、今はもう諦めたらしい。賢者の力も万能ではないし、眠らせることができる時とできない時があるのは、彼女の力ではどうにもできなかった。それでも、最後にミスラの寝顔を見たのはもう何日も前のことだ。途中で来られない日もあったから、相当な時間起き続けていることになる。
 なんとか眠らせたいと、大きな背中をさすったり、トントンと叩いてみたりしたけれど、今日は効果がないらしい。
「ダメですか」
「ダメですね」
 はぁ、とため息と共に返され、賢者は小さく唸った。それならせめて、諦めて部屋に帰った方がいいのだろうか。ミスラの目の下のクマは濃くなり、日中もずっと怠そうにしていた。相当しんどいだろうに、目の前で熟睡されたら気分はよくないだろう。賢者は眠気を払うように上半身を起こした。
「あの、私やっぱり」
 部屋に戻ります、と告げようとした言葉は、続きを発することなく飲み込まれた。言い終わる前に、ミスラの声が遮ったからだ。
「賢者様は」
 決して大きい声ではないのに、低く強く耳に届く。言葉の続きを待っていると、ミスラは賢者から視線を反らすように仰向けになって、ぽつりと零した。
「いつまで俺の所にいてくれるんでしょうね」
 帰ろうとしたのを察したのか、一人置いて行かれた子供みたいな、どこか縋るような瞳。けれど、これは今夜のことだけではなくて、もっと先の話も含まれているのだとなんとなく理解した。いつもは堂々としているミスラが、なんだか今は弱々しく見える。放っておいたら泣き出してしまいそうな、そんな頼りなさ。
 不眠が続きすぎて、精神的に参っているのかもしれない。怒りっぽくなったり、悲観的になったり。それが元々の気質なのか、不眠がもたらす不安定なのかは、賢者には分からない。賢者が初めて会った時にはもう、彼は厄災の傷を負っていたから。
 賢者は再びベッドに寝転がった。それに少しは満足したのか、包み込むように背中に腕を回された。賢者の身体は、ミスラの腕の中に、すっぽりと収まる。
「私はいつか元の世界に帰るんだと思います」
 ずっと一緒にいたい、そんな気持ちはあるけれど、それは叶わない夢だ、きっと。
「もし帰れなくても、私はただの人間です。きっと魔法使いのみんなからすれば、あっという間におばあちゃんになって、死んでしまうんだ」
 ミスラは黙って、賢者の言葉に耳を傾けている。
「私が百歳まで生きたって、……残りの人生すべて、ミスラのことを愛し続けたとしたって、百年にも満たない時間しか、あげられない」
 先のことなんて分からない。何の保証もない。ずっと一緒にいる、と言葉で言うのは容易いが、それはありえないのだと最初から分かっている関係だ。分かっていたのに、手を取った。だから賢者に、嘘は言えなかった。約束が強い効力を持つ魔法使いに、心で力を操る彼らに――いや、そうでなくても、一人の個人としてできるだけ本音で向き合いたいと思っている。愛する人であればなおさら。
「……俺は強い魔法使いじゃないですか。双子にはエースって言われた」
 唐突に話が変わるのもいつものことだし、すっかり慣れたけれど。ミスラが言っていることは事実なので、首を傾げながらも賢者は頷いた。
「そうですね」
「強い魔力があれば、大抵のことはできます」
 この世界に来てから何度も目にした、奇跡のような力。魔法使い達みんな、できることや得意なことは違うけれど、元いた世界にはないもので、自分には持ち得ない力だった。
「それでも、俺や……あのオズでさえ、どうにもならないことはある」
 遠い空間に一瞬で移動したり、傷をすぐに治したり。地を裂くほどの強い力や、天候を操るような能力の持ち主でさえ。
 彼らでさえも干渉できないものがあることを、賢者も理解していた。
「……、気に入らないな」
 言葉とは裏腹に腹立たしい様子でもなく、彼の声は、悲嘆のような諦念のような、そんな複雑な色をにじませている。愁いに沈んだ、とでも言うのだろうか。そんな表情も、整った顔立ちには映えていて、見惚れるほど綺麗だった。
 きっと脳裏に浮かんでいるのは、十数年前に亡くなったという、大魔女チレッタと呼ばれた女性のことだろう。長い時間を過ごした大切な人がいなくなって、その運命にはいくら強大な魔力を持ち合わせていても、抗うことはできなくて。無力感に苛まれたのかもしれない。寂しさが消えないのかもしれない。
 大切、寂しい、と彼が言葉ではっきり告げたわけではない。そうだったのだろう、と自分が感じ取ったことだけれど。
 気付けば賢者は、彼に手を伸ばしていた。いっそ作り物であるかのように美しい容貌。けれどその頬に触れれば、人肌の柔らかさと体温を感じる。
 ミスラの瞳がじっとこちらを見つめてくる。その頬を指先で撫でると、包み込むように大きな手を重ねられた。
 その熱を確かめるように。
「ねえ、ミスラ」
 自分が寂しさを埋められるだなんて思っていない。自分はどうしたって、形はどうであれ置いていく側の人間だ。
「私なんてもっと、思い通りにならないことだらけです。それでも」
 それでも、今この時間だけでも、同じ感情を分かち合えたら。この先、ずっとずっと続くのだろう彼の長い人生の中で、わずかでも温かい光で在れたら、と。そう思ってしまうのは、傲慢かもしれないけれど。
「私は今、幸せですよ」
 精一杯の感情を乗せて、微笑んでみせる。その言葉に嘘偽りはない。愛する人の側にいられて、その体温に包み込まれて。穏やかな時間の流れを感じる、この瞬間が。
「はぁ、そうですか」
 気怠そうな、気のない返事。いつものミスラだ。
「……、……」
 ミスラは何かを言いかけて、そして止めた。言葉を探しているのか、自分の感情を整理しているのか。しばしの沈黙、それから急に身体を起こすと、覆い被さる体勢になって見下ろしてきた。
「今夜も、眠れそうにないので」
 淡々と告げられた言葉の続きは、甘い熱とわずかな寂しさを溶かして混ぜたような色を帯びていた。
「もう少し付き合ってください、賢者様」
 距離が近くなる。柔らかく触れる唇。視線が絡んで、瞳に互いの姿だけを映した。重なった手が、指を絡めて深くつながれる。
 あとは交わす言葉もなかった。影が重なり、更けていく夜に、溶け合っていく。
 きっと互いに、同じ感情を抱いて。

 2020/04/05公開

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