ざわざわと多くの人の声が飛び交っている。その中に、波の音が微かに混ざって聞こえてくる。穏やかな海の音は途切れることなく続いているはずなのに、聴力の良い種族でなければこの喧騒の中では届かないだろう。
 なんとなく毎年来ていたからという理由でこの地を選んだけれど、予想以上に人が多かった。余程の悪天候でもなければ人が集まるけれど、年々増えている気もする。
 そんな中を、手を引いて、足早に歩いて行く。
 潮の香りが強い。流石に日が昇る前の時刻となれば、温暖な地域であるこのコスタ・デル・ソルでも少し肌寒い。と言っても、元気に水着姿で海に入っている者もいるくらいだから、海の中は案外あたたかいのだろうか。いや、盛り上がって飛び込んだだけなのかもしれないが。
 見上げれば綺麗な星空が広がっているのだが、大富豪ゲゲルジュによりリゾート開発されたこの地は、一日中明かりが灯っている。海辺なのに人が集まる所まで真っ暗だったら危険だけれど、今日この日はもう少し静かな空を楽しみたかった。
 コスタ・デル・ソルの桟橋や離れ小島も場所としては良いけれど、少しだけ離れることにした。海岸沿いに北に向かって少し歩けば、人も減ってきた。今日ここに集まっているのは冒険者たちだけではなく、戦う術を持たない一般人もだ。彼らは魔物がいるこちらまでわざわざ出歩かないように衛兵たちに誘導されているし、問題ないとは思う。万が一、人々に危険が迫った時には自分も戦えるように、武器くらいは持ち歩いているが、できれば平穏に済んで欲しい。
 喧騒から離れるにつれ、波音が大きくなってきた。それから、柔らかな砂を踏む音。ふと立ち止まって空を見上げれば、インクを溶かしたように真っ黒で、その上に白く輝く星が散りばめられている。宝石のよう、と例えるのはありきたりだけれど、確かに製作前に宝石類を広げた時みたいに煌びやかだった。あの輝きを閉じ込めてアクセサリにして身につけたい……などとロマンチックな思考ではなく、こんなに石があったら製作が大変だなぁ、なんて現実的な考えが浮かんでしまった。
「まだ進むのか?」
「ううん、この辺でいいかなって」
 振り返って告げれば、彼は微笑んだ。
 特別な日だからと東方の装束を着てきたけれど、動きにくい。可愛いけど、戦闘には向かないんだよなぁ、とやはり現実的な思考から離れられない。
 この岩場のあたりは、昼間はよく釣りをしている人がいるけれど、今はあまり人もいなかった。もう少し進めば踊り子たちの練習場だが、きっとそこまで行けばまた人は多くなるだろう。時計を見ると、そろそろ日が昇る時間だった。今日は新しい一年が始まる、そんな節目の日。これから見るのは、特別なものだ。
 ――第一世界での旅が終わり、みんなでこちらの原初世界に戻ってきて。戻ってからしばらく大きな事件はなかったけれど、なんだかんだと忙しくしていたら、もう年の瀬になっていた。
 せめて年末年始の節目の日くらいはみんなで一緒に祝おうと、暁のメンバーで集まった。タタルがいつもより豪勢な料理や酒を用意してくれて(飲めない者はもちろんジュースだ)、美味しい料理と楽しい会話の中で年を越し、みんなで新年を祝った。その後、飲み続けている人やもう眠った人もいたけれど、自分たちはこっそり抜け出して、二人きりでここまで来たのだ。
 新しく暁に入った、シャーレアンの賢人、グ・ラハ・ティア。初めてクリスタルタワーの調査で出会った時からは、お互い色々なことがあったけれど。第一世界に呼ばれ、水晶公として再会し、こうしてまた、グ・ラハ・ティアとして隣にいる。
 その間に、二人の関係もまた変わったのだが……彼と恋仲になっただなんて、出会った頃の自分に言ってもきっと信じられないだろう。
 手を繋いでいるだけなのに、そわそわと落ち着かない心地になる。これくらい、今に始まったことでもないし、大体それ以上だって。……いや、考えると恥ずかしくなるからやめておこう。
 手を繋いだまま、遠い空と海の境へと目を向ける。この真っ暗な空は、もうすぐ色を変えていく。
 海の向こうを見つめたまま、グ・ラハ・ティアが告げる。
「初日の出なんて久しぶりに見る気がする」
「向こうの世界では、ずっとなかったんだもんね」
「あんたが夜を取り戻してくれてから、日が昇るのを見たことは何度かあるけどな」
 自分の方に向き直り、それから微笑んできた。
「久しぶりに見た夜明けの空は、泣けるほど綺麗だったよ」
「こっちにいると、それが当たり前のものだったのにね」
 第一世界にいる間も動き回っていることが多かったから、移動中に夜が明けたことはあったけれど、ゆっくり景色を楽しんだ記憶はあまりない。落ち着いている時はいつも通り夜に眠ってから朝日が昇った後に目覚めていたから、夜明けを意識して見たことはなかった。
「あぁ、そろそろだ」
 薄らと空の色が変わり始める。水平線の向こうに、明るい光が差していく。
 わぁっ、と歓声があがるのが遠くから聞こえた。
 けれど二人は声もなく、その光景に見入っていた。少しずつ昇る太陽が、夜空を明るく染め変えていく。陽光は水面に映り、帯のような光が一筋、創り出された。それは太陽まで続く橋のようにも見えた。
 明けの空と、海と、遠く見える建物、灯台の光、大型船、砂浜。聞こえるのは波の音、遠い歓声。肌や髪を撫でる潮風、そして、繋いだ手から伝わるぬくもり。
 胸が震える。この感情をなんと言うのか、自分は知っている。
 日が昇りきるまでの間、二人はただそうして海の向こうを見つめていた。長いようで短い時間。
 空がすっかり明るくなってから、ようやく口を開いた。
「付き合ってくれてありがとう。グ・ラハと一緒に来れてよかった」
「俺もだ」
 今まで何度も見てきたはずなのに、こんなにも特別な景色になるとは思わなかった。
 二人で一緒に見た景色を、自分はずっと忘れないだろう。
「向こうに行ってから、一日一日を大事にしたいなって考えるようになったんだ」
 こうして新しい日を、年を迎えられるのは、決して当たり前のことではない。第一世界で旅は、自分がいつどうなるか分からないという冒険者の仕事の意味を痛感した。
「やりたいことは、できるうちにいっぱいしておこうと思って」
「……ごめん」
「えっ?」
 返ってきた謝罪のことばに、自分の伝え方が悪かったかと焦る。別に悲観していたわけではないのだと、慌てて首を振った。
「ちがうの。グ・ラハが謝ることじゃないよ。でも、ね」
 精一杯生きたいと思った。世界の色んなものを見て、学んで、体験したい。冒険者として、一人の人間として。
「思い出を作りたいんだ。あなたと一緒に行きたい場所、やりたいこと、食べたいもの、いっぱいあるの。ここもその一つ。だから、ね」
 グ・ラハ・ティアの方に向き直り、その両手をぎゅっと握る。そうして彼を見上げた。
「また、付き合ってくれる?」
「そんなことでいいのか?」
 苦笑交じりの言葉。けれど尻尾がふわりと揺れている。
「もっと欲張ってもいいのに」
「そうかな、結構、欲張りだと思うよ私」
 今まで歩いた旅路の中で、もう一度立ち寄りたい場所もある。まだ見ぬ世界を知りたいとも思う。使命を忘れたわけではないけれど、きっと、時間なんていくらあっても足りないくらいに世界は広い。
「あんたが望むならいくらでも。……俺も、同じ気持ちだよ。あんたと旅がしたい」
「そっか」
 自然と、口元がほころぶ。今年はなるべく平和な時間が長く続くといいなぁ、と願う。
 たくさんの思い出を二人で作りたい。みんなと一緒の思い出だってほしい。英雄としてではなく、暁の仲間の一人として、グ・ラハ・ティアの恋人として。
 話をしているうちに、空は明るさを増していった。日の出を見に集まった者達も、少しずつ帰途につきはじめている。
 そろそろ自分達も戻るべきだろう。なのにまだ帰りたくない、と思う。
「……もう少し、一緒にいたいな。……ダメ?」
 なんだか離れがたくて、ねだってみる。すると彼は、耳をぴくりと跳ねさせ、顔を真っ赤にしていた。
「っ……俺も、一緒にいたいけど。戻らなくていいのか、石の家に」
「大丈夫じゃないかな。……アパルトメント、近くにあるから」
 長く空けていたけれど、リムサ・ロミンサの冒険者居住区に部屋を一つ持っている。そこならば、気兼ねなく二人で居られるだろう。
「あんた……それは……」
 グ・ラハ・ティアは、自分の髪をくしゃりと乱し、あー、と唸り声をあげていた。
「あ、ベッドは一つしかないけど、敷き布団なら客用に用意してあるよ。製作に使ったりしてる部屋だからそんなに広いわけじゃないけど、寝る場所くらいあるから」
 そう説明すると、彼は探るようにじっと見つめてきた。
 怪訝に思って首を傾げると、彼はふと笑った。
「いや、なんでもない。……あんたと居ると、刺激的な毎日が送れそうだ」
「うん?」
 問い返してみたけれど、返事はなかった。
 それからリムサ・ロミンサに戻り、居住区へと案内する。外はすっかり明るくなっていたけれど、部屋に戻って布団を用意し、そのまま眠りに就いた。
 お互いに、おやすみなさいと言って傍で眠り、目が覚めたら一番におはようと告げることができる。同じ時間を、気持ちを分け合える。それだけで、こんなにも嬉しい。
 また新しい思い出を、あなたと一緒に紡いでいこう。
 これはきっと、幸せな一年の始まりだから。

 2021/01/08公開