空を覆う眩いほどの光も届かぬ、暗い暗い海の底の奥深く。高くそびえ立つ建築物に灯る明かりは、地上の光とは違えどもこの幻影都市を照らし続けている。
 その中の一つの建物。かの英雄との決戦の地として選んだ場所。既に不要となった終末の幻影は消え去り、元の何もない、静かな建物に戻っている。
 ここに存在する人は、三名。ガレマール帝国の元皇帝、ソル・ゾス・ガルヴァスの若かりし頃の姿をしたアシエン・エメトセルク。彼が捕らえ連れてきた、今は水晶公と呼ばれる人物グ・ラハ・ティア。そして光の戦士……こちらの世界では闇の戦士と名乗っていたか。英雄と称された人物の三人だ。……いや、正確に言うならば、最早誰も『人』と呼べる存在ではないのだが。
 元々彼らの定義する『人』ではない古代人であるエメトセルクと、この英雄を救う為に人であることを捨てた青年。そして、皆の希望であったはずの英雄は。
 今はもう、微かに人の形をとどめるだけの、化け物となり果てている。
 決戦の日から既に十日は経っていた。
 英雄の罪喰い化は予想以上に進行が早く、未来も願いもあざ笑うかのように、その身から抵抗する力を奪っていった。光が溢れるぎりぎりのところでかろうじて抑えていたけれど、それももう時間の問題だった。仲間だと言っていた者らも誰一人この英雄を救うことができず。ただ一人、健気にも内なる罪喰いの力に抗っていた。
 殺すのは簡単だった。ただ、決着がついた以上……英雄が大罪喰という化け物に成り果てる未来が確定したからには、わざわざ殺す理由もなかった。
 仲間たちのことは生かしておく必要もなかったけれど、多少の傷を負わせた程度にとどめて生きたままこの深海の底から地上に放り出した。もうここには戻ってこられないか、戻ってきたとして大罪喰いと化したこの英雄を止められる力などない。
 ならばその絶望を、世界の終わりを、地上に生きる者達に触れ回ってくれた方が、役にも立つというものだ。
 もう一人ここにいる水晶公には、まだ訊きたいことがあった。素直に答えてくれるとも思えないが、彼の持つ知識や技術は得られれば役には立つ。
 何より、水晶公もまた、英雄ほどの力はなくとも人々の希望たる存在だ。二度と戻ってこないという事実は、地上の絶望と混沌を加速させてくれるだろう。
 彼はエメトセルクが魔力で編み上げた檻の中で過ごしている。小さな牢のようなもので、生命を維持する最低限の用意はしてある。無理に破ろうとすれば莫大な魔力を消費することになる。ただの人であれば、力を使い果たして死ぬだろう。よほど英雄を信じていたらしく、囚われてからも気丈に振る舞っていたが、英雄が敗れたと知ると、抵抗する様子も消えた。失意に飲まれたか、打開策や脱出手段を考えてはいるのかは知らないが、何にせよ彼にもこの状況を覆せるとは思えない。
「終わってしまえばあっけないものだ」
 エメトセルクが小さく溜息を吐いた時、鋭い絶叫が静寂を破った。
 声の方へ視線をやれば、柔らかな敷物の上に倒れ伏し、胸を掻きむしる英雄の姿。爪が肌に食い込むほどの強さで、うっすらと血が滲んでいる。だがそんな傷など比べものにならないほどの痛みがその身を襲っているのだろう。苦痛と恐怖にゆがむその顔には、毅然と立ち向かってきた時のような意志の強さは感じ取れない。
 最早、まともに意識を保っているのかも怪しいものだ。
「哀れだな」
 エメトセルクが発した言葉も、聞こえてはいないだろう。特別な力をもち英雄と呼ばれていた者も、所栓はただの、なりそこないの『人』だ。激しい苦痛にその身を晒され続ければ、正気を保つことは難しい。
 この深海の暗闇さえ、ほとんど進行を遅らせることができなかったほど、溜め込んだ光に侵されている。こうして苦しんで、やがて気を失って、と繰り返していたが、それももう、終わりだ。
 口元から、一筋零れ落ちる光。
「あ、あ……ああぁ、あ、……ッ!」
 強く咳き込んで、大量の光を吐き出す。罪喰い化の前兆。エメトセルクは、ただそれをじっと見ていた。
 眦から頬へ伝う涙、もう何も見えていないのだろう、焦点の定まらない瞳。それでも、縋るように伸ばされた腕に。
「……れ、か……、……すけ、……て」
 掠れた声は、それでも耳に届いた。今までこうして誰かに縋ることもできず、歩み続けてきたのだろう。英雄でもなんでもなく、ただ一人の人間として、祈りのように吐き出された言葉。
 けれど震えるその指先は、何も掴むことはない。
「お前が幾度も聞き届けてきただろうその願いは」
 エメトセルクは英雄の方へと歩みよる。
「お前が口にしたところで、誰も叶えてくれる者などいない」
 目の前に膝をついて、ぐらりと傾いた身体に手を差し出した。
 大切な存在と同じ魂を持つ、特異な英雄。厳密に言えば、唯一自分だけは、その願いを聞き届けることも可能ではあった。ただそれは目的とは反するから、受け入れるわけはいかなかった。
 だからせめて、最期くらいは。
「……本当に、救われないな」
 崩れ落ちる身体を抱き止めて、手袋をしたままの手で口元を拭ってやる。
 人々の希望を一身に背負い、戦い続けてきた一人の人間の末路が、これか。終わりなど、呆気ないものだ。原初世界と、第一世界の希望であったこの英雄は、ようやく苦痛から解放され、眠りに就いた。
 次に目が覚めた時には、この世界に絶望をもたらす大罪喰いと成り果てているだろう。
 エメトセルクはその身体を抱き上げて、別室へと移動した。


   *****


 きらきら、ふわふわ。明滅する光が目の前を飛んでいる。
 それを掴もうと手を伸ばしたけれど、するりと手からすり抜けてしまった。その光はまたふわふわと、自分のまわりを漂っている。
 何度手を伸ばしてもあと少しのところで逃げてしまう。やがてひどい不快感を感じて、その光を追うのをやめた。
 視線を落とし、自らの腹に触れる。
「う……ぁ、うぅ……」
 感じたのは空腹。なにかたべたい。頭を満たすのはそれだけ。でも、どうしていいか分からない。見回しても、暗い部屋の中にいるのは自分の他は頭上を漂う光だけ。手を伸ばしても届かない。
「うぅぅ、あぁ……」
 ぐずる幼子のように唸っていると、小さな光が言葉を発した。
『可哀想な私の若木。お腹が空いたのね』
 光が弱まり、赤い髪の小さな妖精がはっきりと姿を現す。
『人間を捕まえて連れて行きたいところだけど、今はこの姿で来るのが精一杯なのだわ』
 どこか申し訳なさそうに告げた妖精の彼女――フェオはあたりを見回して、一点にその視線を向けた。
 腰に手をあて、睨むようにその先を見つめている。
「妖精王、か」
 やがて現れた人影が、気怠そうな声を発する。
「なんだ、起きていたのか」
 その人はこっちを見て、わらった。それからフェオと何やら言葉を交わしていたが、何を話しているのか耳には入らなかった。
 その人が、とても、とてもおいしそうに、みえて。
 誘われるようにふらふらと近づいていくと、その肩を掴んで、そして。
「……やれやれ、私に噛みつくとは」
 呆れたような溜息。そして頭を掴んで引き剥がされてしまった。つけられた噛み傷を治癒魔法で消し、それからじっとこちらを見てくる。
「エーテルが欲しいのか。待っていろ、今……」
 柔らかな声音、穏やかに細められたまなざし。
 やっぱり、おいしそうで。たべたくてしかたなくて、もう一度かじろうと顔を近づける。
「はぁ、待てもできないのか」
 顔をしかめて、それから溜息とともに引き寄せられた。
 やわらかいものがふれて、あたたかい何かが流れ込んでくる。
 唇が触れ、呼気を送り込むように、エーテルが注がれる。それはひどい餓えを優しく癒していった。
 もっと。もっとほしい。
 無意識に首に腕をまわして、強く引き寄せる。
「なんだ、まだ足りないのか?」
 親が子を慈しむような、或いは恋人に睦言をささやくような、そんな甘さを帯びた声。
 そうして再び注がれたエーテルは、身体中に染み渡って乾きを潤してくれる。
「今更闇を混ぜたとて、その光は消えはしない、か」
 唇を離して、彼は苦い表情で呟く。
「……やはりその光は、不快だ」
 なにを言っているのか、よくわからない。そもそも、この人が誰なのかも、わからない。けれどそんなことは気にならなかった。そばにいるのが当たり前のような、心地よさ。飢餓感が消え失せると、ふわふわした感覚が身を包む。
 あったかい。きもちいい。
 こてん、とその肩に頭を預け、目を閉じる。
 抗いがたいその感覚に、流されるように身を任せた。


「腹が満たされたら眠るか。まるで赤子だな」
 エメトセルクは一人ごちて、それから苦笑する。
「いや、似たようなものか」
 新たに生まれたばかりの大罪喰い。どんな化け物が生まれるかと思えば、ほとんど元の姿と変わらなかった。肌も髪も透けるように白く、その背にはエーテルの羽。明らかに人ではないと分かる容貌だが、この英雄を知る者には、誰だかすぐに分かるだろう。
 抱き上げて寝台へと運び、そっとおろす。その肩にはまた、ふわふわと、光がおりた。妖精王の力の片鱗。ただ、英雄であったこの者のそばにいるのが目的なのだろう。あれこれと口は出されたが、好きにさせたところで害もないと判断した。
 穏やかな寝息が聞こえる。化け物の身で人と同じように眠るなど、とも思うが、大元が変わり者のあいつなのだ。何があってもおかしくはない。
「……まぁいい。今は、ゆっくり眠れ」
 焦る必要もない。時間はいくらでもある。
 この英雄だった者が次に目覚めた時には、自ら地上に降り立ちエーテルを求め生物を食らう化け物として死と絶望を広めるか。
 それとも、外の世界など見せることなく、この街で静かに滅びを待つのか。強大な力を持ち目覚めた大罪喰いに、すでに地上の罪喰い達は活性化しているだろう。それは人々や動物を喰い、仲間を増やしていく。
 どちらでも構わない。これ以上何もせずとも、この世界は滅び、原初世界は霊災に飲まれるだろう。結末は変わらない。その最期の時を共に見届けて、大罪喰いと化した英雄の肉体が滅んだその後は、魂を拾い上げて、そして。
 第十三世界がヴォイドと化した今、完全にとはいかなくても、それに近い状態に戻せる希望は残っている。気が遠くなるほどの長い時間を過ごしてきた。そして、これからも同じくらい、いやもっと長い長い時間が、かかるかもしれない。それでも構わなかった。この手が届く、すぐそばに、あの日分かたれた存在の欠片がいる。
 まだ終わったわけではないけれど、エメトセルクの心に、わずかでも安寧をもたらしたのは事実だ。 
「おかえり、……」
 暗い暗い海の底、あの日を映す、幻影で編まれたこの街で、穏やかな終焉を迎えよう。今度は最期のその瞬間まで、ずっと、そばで。

 2019/08/25公開

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